2013年9月24日火曜日

リゾート「軽井沢」へ

2013年9月9日(月)~10日(火)の1泊2日で、大学の自主的なゼミ合宿を称して9人で軽井沢へ行きました。

9日は8時に福島駅東口でレンタカーを2台借りて、福島松川スマートICから東北道へ。
安達太良SAで1回目の休憩、2回目を那須高原SAで、栃木県の岩舟JCTから北関東道に入り、群馬県に入って波志江PAで3回目の休憩、高崎JCTから関越道に入り、まもなく藤岡JCTから上信越道へ。
最後に横川SAで昼食を含めた休憩をしました。
13時に碓井軽井沢ICを下りて、軽井沢市街へ。

旧軽井沢の近くのパーキングに車を止め、軽井沢銀座を散策。
「るるぶ」を見ながら、紹介されているお店でジェラートを。
天気も良くて、最高でした。

(旧軽井沢入口)

(静寂の軽井沢)

軽井沢銀座を満喫したら有料道路を乗り継いで、群馬県嬬恋村のログハウスへ。
9人ということで、貸切で宿泊してきました。

夕方、車で近くの温泉へ。
日帰り入浴600円でしたが、施設は広く追加料金なしで岩盤浴までついていました。
600円で岩盤浴にまで入れることを思うと、もう他の温泉へは行けませんね。

そして夕飯は、みんなで楽しく焼き肉をしました。
お酒が入って2時頃まで騒ぎ、そのあとしばらく各部屋でゴソゴソしていました。

(鬼押し出し園)

翌日、10日は9時半にチェックアウトをして、まずは鬼押し出し園へ。
入場料600円を払って、約2時間かけてゆっくりと散策しました。
私は家族と何度も訪れていますが、やはり一緒に来る人が違うと、また新たな発見や楽しさがありました。
やはり旅行はどこへ行くかということも重要ですが、それ以上に「誰と行くか」が重要なのだなと改めて感じた軽井沢でした。

鬼押し出し園のあとは、白糸の滝に立ち寄って、旧三笠ホテルへ車を走らせます。

(白糸の滝)

(旧三笠ホテルカレー)

旧三笠ホテルの駐車場に車を止めて道を歩いていると、なにやらよさげな雰囲気のレストランがあったので、そこで昼食を取ることにしました。
ウエイトレスの奥さまはエレガントで、客層の年齢も高く、とても落ち着いたレストランでした。
軽井沢ことルイザ国は、日本の物価の2倍近いリゾート地でしたが、ここのレストランは旧市街から離れているということもあってか、上の写真のカレーが1,155円でいただけました。
このカレーは、旧三笠ホテルで出されていたものらしく、そのスパイスは研究に研究を重ねて仕上がった匠の技だそうで、心していただきました。
お腹も満足し、気分も高まったところで、いよいよ旧三笠ホテルの観光です。

私たちのグループは4人で、4人ともすでに宮崎駿『風立ちぬ』を見ていたということもあり、草軽ホテルそっくりな旧三笠ホテルでは、さかんに「風立ちぬ」ごっこをしました。
あとで舞台が万平ホテルだったと知って、あらあら。
歴代の偉い人たちが足を運んだ旧三笠ホテルで歴史の重みを踏みしめ、午後2時半。
家路につきます。

旧軽井沢を抜けて、国道18号バイパスにあったガソリンスタンドで1回目の給油。
15時に碓井軽井沢ICから上信越道に入り、横川SAでもう1台と合流。
ここで記念撮影と合宿の〆を行い、「郡山・二本松・福島」組と、「福島・仙台」組にメンバーを組み直して再出発。

行きは安達太良SA、那須高原SA、波志江PAと横川SAの合計4回の休憩をとりましたが、帰りは横川SAと東北道の大谷PA、阿武隈PAの3回で福島まで戻りました。
18時に福島松川スマートICを下りて、仙台まで帰る学生をJR金谷川駅で下ろし、福島市内で2回目の給油をして19時にレンタカーを返却して、今回の旅は終わりました。

軽井沢銀座のお店の人たちは、誰もが親切でエレガントでした。
なぜでしょう?
やはり「軽井沢」というブランドに裏付かれた自信からでしょうか。
福島の会津などは、NHKの大河ドラマ「八重の桜」で取り上げられて舞い上がっているのに対し、軽井沢では「風立ちぬ」の話をしても大して興味を抱かれず、それよりも商品の品質や味について分かりやすく丁寧に説明することに一生懸命な印象でした。

大学に入ってから度々出かけている、同じリゾートである「那須高原」と比べても、軽井沢は格段に上をいっている気がしました。
大人が軽井沢を好む理由が、少し成長してきてわかったような気がしました。

9月のお出かけは、この軽井沢だけでしたが、来月は東京、長野、青森と予定が入っています。
さらに11月は広島、12月は京都と、毎月の遠出が予定されていて、楽しみな秋がまもなく始まります。

2013年9月3日火曜日

震災を考える

(JR仙石線野蒜駅)

9月2日午前8時。
NHKで「あまちゃん」が放送されていた。
この日のあまちゃんは、主人公が東日本大震災に遭遇するという設定である。

前日9月1日は防災の日と言うこともあり、多くの震災関連報道がされていた。
その中で私は、NHKで13時05分から放送された
「特集・明日へ支えあおう 被災地の今を知っていますか?」
と、15時55分からの
「こころフォトスペシャル『記憶の森が命を紡ぐ』」
を録画して見た。
そして今、9月3日2時15分からKFB福島放送で流れている
「テレメンタリー2013『失われていく故郷~宮古・田老地区からの報告』」
を見ている。
金曜日には大学の研究室へ行って、指導教授と「四川大地震と東日本大震災」についてしゃべった。
お盆休みには松島の親戚の家へ行って、石巻・女川、金華山界隈の話を聞いたり、仙石線代行バスに乗って東松島へ出かけた。

私の家は震災で誰も欠けることなく、祖母の家は地震で全壊して今はないけど、津波で流されることもなかった。
第一、自分が育った家が壊れたわけではない。

テレビでは、子ども・妻・両親を亡くして自分1人だけが生き残ったという人も出ていた。
今なお東京の公務員宿舎に避難している家族も取材を受けていた。

亡くなった方、行方不明になった方、合わせて2万1000人あまり。
1人1人に人生があって、その人を取り囲む人がいて、災害がその人の人生を変えていった。

沿岸部は出かける度に、瓦礫が片付いて、撤去されて、整地が進んで、護岸工事が終わって、と目に見える形でインフラの復旧がわかる。

一方で、福島の放射能災害というのは目に見えないだけに実態がどうなっているのかも分からないし、ここがどれほど危険な場所なのかもわからない。
安全だと言われても、福島市の放射線量は平常の8倍。
普通に暮らしてはいるけれども、気持ちよく深呼吸はできない。

外から来たよそ者がこの程度でストレスを感じるくらいなのだから、自宅をバリケードで覆われた避難指示区域の人たちの想いは、どれほどのものだろうかと、想像を絶する。

岩手や宮城、茨城・青森の沿岸部は、少しずつ先が見えてきたようだ。
でも、福島県はまだまだ先が見えない。
ここはどのくらい安全なのか、除染はどのくらい効果があるのか、震災前の自然に戻るには、あとどのくらいかかるのか。
避難している人は30万人。
福島県民は200万人。
日本国民は1億2700万人。
日本全体からしたら福島県の人口なんかわずか1.5%。
見捨てられるのではないか、と思ってしまう。
私は東北地方の東日本大震災を考えるのではなく、福島県の東日本大震災を考えて、卒業論文をまとめようと思う。

震災当時を再現する番組の多くで、生き残った人にとって一番大事な所を映していない気がする。
それは、目の前から一斉に物がなくなるという体験。
24時間営業が当たり前で、いつ行っても食べ物が売っているコンビニが閉店すること。
ATMすら動かないということ。
あれほど豊富に物が置いてあるスーパーマーケットから、一斉に物がなくなるということ。
惣菜、カップ麺、飲料はもちろん、冷凍食品、お菓子まで。
サトウのごはん3パック入りが500円で売られるような世界。
それが飛ぶように売れていく。
物がこれほどあふれている日本だけど、本当はすぐになくなってしまうのだな、と知った。
ただただ感情的に煽るのではなく、その時何があったのか、ということも伝えるべきではないのかな、と思う。

4年間という限定された期間で福島に来て、ここで友達がたくさんできて、1年目で被災して、東日本大震災は私の大きな影響を与えた。
これからも福島のことは考え続けていくし、しばらくしたら福島に戻りたいと思っている。

福島で問題なのは、見通しが全く立たないことだと思う。
原発が福島にもたらした恩恵は大きいけれど、何かが起きた時、それ以上の代償を払うことになるのだということを、もっとみんな知ってくれればな、と思う。
福島の復興への道のりは、果てしなく長い。
私は、そう感じる。