2013年12月31日火曜日

1年をふりかえる

日付が変わって、2013年12月31日(月)。
大みそかだ。

30日は雨が降ったりやんだりしていた。
お昼頃まで寝ていて、先週にパンク修理をした自転車の確認をして、後輪ブレーキを取り換えた。
昨年の11月中旬、寒くなった夜に市内から大学まで自転車をこいでいたら、国道4号線の交差点でブレーキが破損して、それ以来放置してあった。
しばらく乗っていない間に後輪がパンクしてしまい、それを直してブレーキの交換も前輪、後輪と済ませ、新車同様の性能に回復した。
この自転車は、大学に入った直後の6月に市内の自転車屋さんで6千円で譲ってもらった中古のブリヂストンだ。
新車で買っても3万円くらいだろうが、福島の山々を通学している間に愛着が生まれ、一度タイヤ交換で4千円を払ったらやけになってしまって壊れるたびに直している。
このまま東京まで連れて行きたいな、と今は思っている。
あとはカゴを取り換えれば完璧だ。

夕食は部屋でカレーを食べた。
納豆と味噌汁も食べて、落ちつく。
夜10時過ぎ、散歩がてら金谷川駅前のコンビニへ行って夜食を買う。
金麦と澄みきり、チョコバナナクレープを買って、部屋に戻る。
iPodのスイッチを入れて、鬼束ちひろを聴きながら缶ビールの栓を抜く。

この1年間を振り返る。
振り返れば、進路選択に時間を多く割いた1年間だったと思う。
これまでの学校生活中心の生活からは離れた、自分の中では前例のない1年間になったと思う。
12月26日に私の就職活動は始まった。
この日、新幹線に乗って日帰りで東京・田町へ。

1月、学内で開催された説明会を中心に少しずつ就職活動を始めた学生なのだと意識し始める。
1月29日には尊敬する山川先生の最終講義があって、教授が最後に涙してしまったのを見て、福島大学から優秀な教授から1人いなくなってしまう、と感じた。

1月~2月にかけては週1~2のペースで福島と東京を往復し、新幹線やらニラクバスやらを使い込んだ。
今年は前厄にあたるので、2月3日に福島稲荷神社で5千円を納めて厄払い。
就職活動をしながらも、携帯電話は海外でもつながるし、世界中どこでもwifiが使えるから、と2月11日から20日までマレーシア・ベトナム・カンボジアを回る。
日本が一番寒い時期に南国の暖かいところで過ごすことの贅沢さを知る。
旅先では目立ったトラブルもなく、20日の深夜に羽田に到着し、そのまま東京駅から高速バスで福島へ。
1日置いて22日に大阪からの友人を出迎え、25日までの夜を共に過ごす。
この間も東京や仙台を往復し、アルバイトにも出かけ、落ち着かなかった。
22日には、田町の会社のグループディスカッションに参加。
28日、研究室に呼ばれて行くと、指導教授から「新潟に異動になった」と告げられた。
前年の秋には中国でフィールドワークを行い、1月にはゼミ生共同で論文を提出し、いよいよこれからだと思っていただけに、ショックだった。

3月に入り、アルバイトの夜勤が始まる。
勉強して、東京行って、勉強して、アルバイトして、東京行って、アルバイトして、勉強して、の繰り返しで、将来への不安も重なって恋人との関係が悪くなる。
3月6日、初めての面接。
田町の会社だった。
この時に「最初に内々定を出してくれた会社に就職しよう」と決意した。
3月11日はJASPのイベントに出かけたが、乗る予定だった電車が強風で運休になって遅れてしまい、14時46分は電車の中で黙とうした。
いくつかの会社で面接が始まりだしたが、全部落ちたらやばいので、今までの業種から広げて説明会に参加を始める。
19日は一番早く進んでいる田町の会社の座談会があったので、いつもは新幹線だったがこの日は高速バスで往復した。
21日には私を拾ってくれた研究室へあいさつへ伺い、23日には福島市内のホルモン市場で送別会を開いた。
卒業式は25日にあった。
2年前に失礼なことをしてしまった先輩に久しぶりにお会いすることができて、ふつうに話してもらえて嬉しかった。
社会への出帆を目前に控えた先輩の目は、キラキラしていた。
27日はふくかんねっとのイベントのお手伝いをして、28日は以前からお世話になっている韓国文化の先生が庭坂でレストランを開いたと聞いたので昼食をいただきに出かけた。
そして30日、夜勤明け新幹線でぐっすりと眠って午後一番で田町の会社の最終面接。
すべてを出し切って夕方の新幹線で福島に戻り、翌日はまた夜勤に就いた。

4月1日。
夕方に田町の会社から内々定の電話がかかってきた。
翌日、新しく所属した研究室へお邪魔して内々定を報告。
そのまま京都の桜を見たくなったので、夜行バスで福島から京都へ。
3日の朝に京都に到着して奈良の吉野へ行って千本桜を見て、夜は梅田で大阪の友人に食事をごちそうになり、4日は京都を散策。
夜の円山公園の桜がきれいで、来年もまた見れるのかな、なんて思いながら京都駅で高速バスに乗ろうとして、危うく福岡行きに乗りかけるところだった。
内々定が出てからは、落ち着いた日々が遅れた。

5月の大型連休は福島でゆっくりと過ごし、連休が明けると青森へ出かけたり東京へ出かけたり夜勤が続いたりと少しバタバタした。
11日の朝、金谷川で降りれずに松川まで寝過した。
14日にはゼミの花見があって、そのあと夜は新幹線の中で知り合ったおじさんに食事をごちそうして頂いた。
23日は利き酒会なるものが大学であり、26日は夜勤明けであったが生協関連のイベントで仙台へ出かけた。
つづいて27日は異動になった元指導教授のところへごあいさつに、車で新潟へ。
夕方には福島に戻って、翌日はゼミのあとに会津料理「楽」で飲み会。
31日は1年生の時にお世話になった英語の先生とたまたま生協で会い、そのまま一緒に昼食をとった。

6月1日、2日と東北六魂祭があり、福島市内はものすごい人出だった。
私は両日ともに夜勤で、疲れていたので少しだけ祭りを見てすぐに帰って寝た。
やはり祭りは当地でやるから意味があるのであって、こういったエンターテイメント化されたものはありがたみが欠けると思った。
11日、ニラクバスの運行がまもなく終わるというので、特に意味もなく東京へ向かった。
その時にほぼ貸切であったにも関わらず大学の友達と一緒になったので、福島から東京までずっとしゃべっていた。
そして東京駅に着いてからお寿司を食べて1杯飲んで、ラーメンを食べたのは、思い出となった。
18日には朝日新聞の記者がゼミで職業紹介をやってくださり、夜は親睦会があったがゲストは途中で抜けてお仕事へ。
20日はパセナカミッセのソラナカで夕食を取り、夜の信夫山に上がって烏ヶ先展望台からの夜景の美しさを知る。
22日に前から気になっていたKOKUYOのオフィスチェアをインターネットで安く見つけたので衝動買い。
27日は選挙の宣伝カーを運転した。

7月に入り、蝉が鳴きはじめた。
2日は仙台白百合女子大へ行き、ケニアで黒人に囲まれるよりも女子大で冷たい女子学生に囲まれる方が怖いなぁって思った。
15日、大学受験の時にお世話になった予備校の先生が副業の一環で毎年開いているバースデーコンサートをやるというので、昼の新幹線で東京へ行き、昼食をごちそうになって夜は荻窪のライブハウスでコンサートを聴いた。
そのまま新宿0時15分発の福島経由山形行きの高速バスに乗ったが、なんと新宿駅を出で1分も経たないうちに接触事故を起こして2時間立ち往生。
ちょうど関越道の死亡事故を受けて高速バス改革をやっていたときで、こんなところで死にたくないからキャンセルして翌日の新幹線で帰ろうかとも思ったが、運転手に話を聞いたら正気だったので安心して乗って帰った。
バスは2時間遅れの2時20分に新宿駅に出発したが、福島駅には定刻より20分遅れの6時10分に到着だった。
普段は2回の休憩があるが、この時は1回しか取られなかった。
17日は不思議なご縁を通して、いわき市の税理士さんにお会いした。
このような素晴らしい方も世の中にはいらっしゃるのだなぁって思った。
20日は郡山へ出かけてBigIのプラネタリウムで放映していた宇宙兄弟を見て、スペイン料理を食べてカラオケして帰った。
21日はいよいよ参議院選挙があり、たぶんこの日を境に日本は今までとは違う一歩を歩み始めたと思う。
22日はベトナム飲みがあり、久しぶりにベトナム人の部屋を訪問。
23日は、ぱいなっぷる家でビアガーデンからの庄や飲み。
29日から8月1日にかけて帰省した。

8月、最後の夏を福島で。
3日は1人でわらじ祭りへ出かけるも、途中で友達と合流して、一心亭でラーメンを食べて帰宅。
7日は会社の内々定者懇親会ということで日帰り東京へ。
10日、郡山うすい百貨店のジュンク堂でぶらぶら本を探して、風立ちぬを見て、四川料理を食べた。
16日にはアルバイト先でおでんを売り始めていて、もう秋なんだな、と思った。
19日は高校のときの日本語を研究している友達から電話で会議をやった。
22日、甲子園の決勝「前橋育英VS延岡学園」があって、延岡学園が初出場初優勝を飾った。
今年の甲子園は結構見たと思う。
そして24日、須賀川の花火大会へ出かけた。
26日から1泊2日でサークル合宿で蔵王温泉へ行った。
つづく28日から1泊2日は横浜で同期になる人たちと自主的な交流会。
横浜から福島に戻って夕方、森合の県立美術館で若冲展に行った。

9月。
1日に女子ラクロス部が大学が試合会場になったというので少し手伝う。
比較的9月は落ち着いており、9日から1泊2日で軽井沢へゼミ合宿に行き、あとは勉強していた。

10月1日。
いよいよ内定式があるということで、東京へ。
簡単な自己紹介プレゼンテーションをして、親睦会。
会長とか社長とか役員とかいっぱいいて、わくわくした。
2日は活躍する大学の先輩に会いに日帰りで長野へ。
大宮から始発の新幹線で長野へ行き、最終で戻ってきた。
7日、イギリス留学から帰国した友人を含めて学食でランチ。
8日はゼミの新歓を「宴」で。
15日から2泊3日で青森へ出かけたが、見事に16日に台風が直撃してとてもヘビーな旅行になったが、最終日は台風一過の快晴となり気持ちよかった。
23日、JASP飲みということでのこのこと「ワイン酒場」に出かけたら、誕生日を祝ってくれた。
こういうの初めてだったから本当に嬉しかったし、高いお酒までもらっちゃって恐縮。
そして中学からずっと付き合いのある友達からもプレゼントが届き、最高の誕生日となった。
26日は親が裏磐梯へ紅葉を見に来るというので、郡山で昼食。
そして30日、市長選出馬を辞退するという市議の記者会見の現場に立ち会った。

紅葉も深まり、雪が舞い始める11月。
1日に松島の親戚宅へ行くことになったのだが、行きの電車の中で東福島から偶然にも友人が乗ってきて、仙台までの1時間を楽しく過ごした。
そして3日、4日と1泊2日で弘前へ温泉旅行。
6日は大学生協テーマのある旅の有名な方がマレーシアからお越しになって、大学で講演。
何もしないことが一番よくない、ということを学んだ交流会だった。
そして新たなつながりができたことに感謝。
14日は桑折の復興住宅建設予定地、相馬の完成した復興住宅、大玉の村営復興住宅建設予定地を視察して、二本松の岳温泉に入って帰ってきた。
そのあと研究室へ寄って、友達に夜食に南福島の吉野家へ連れて行ってもらった。
21日から4泊5日で、長崎、福岡、広島を回った。
メインは23日、24日の広島大学で行われた合同ゼミ。
11月は福島駅西口改札前のAbboccareのクレープにはまりながら、過ぎていった。

そしていよいよ12月。
毎日毎日、優雅な生活を送っている。
13日、中学・高校を訪問して、就職先が決まったことを恩師方々に報告。
16日は京都で会社の内定者連絡会があったので、前日入りして阪神淡路大震災の復興後を視察。
1日中、大阪の彼氏に案内して頂いて、昼食、夕食とごちそうになる。
夜はホテルの30階から夜景を眺めながら、これから先の100年の話をした。
福島に戻って落ち着いた22日、アルバイトの夕勤が終わって部屋に帰ったら友達がケーキをごちそうしてくれた。
24日のクリスマスイブは、うれしいことに夜勤に入って、カップルでお越しになるお客様を帝国ホテルの水準をめざしたおもてなしでお出迎えしました。
26日から1泊2日で、仙台から来た友人と飯坂温泉へ行き、のんびりゆったり。
年賀状も出し終わって、いよいよ2013年も終わる。

29日は今年1年の感謝を伝えに福島稲荷神社へ出かけ、おみくじを引いたら大吉が出た。
来年も健康で病気や事故のない幸せな1年が送れたら良いな、と思う。
今年も1年間ありがとうございました。
来年も、よろしくお願いします。

それでは皆さん、良いお年を。

2013年12月24日火曜日

クリスマスの約束

(2010/12/23 JR釜石駅にて)


日付けが変わって12月24日、クリスマスイブになりました。
今年は雪が多いのか、11月から雪がちらつきはじめ、12月上旬から何度か積もっています。
大学のある山の上は、3日前に降った雪がまだ解けきらずに残っています。
でも今年は風が弱く、強風で電車が止まることはありません。
毎年11月下旬から12月中旬にかけて、特に12月上旬は北風が強く、日記を読み返してもストレスになっていたのが読み取れます。
しかし今年は風の代わりに雪が降っているみたいです。
雪は白くてきれいで、つめたくて、私は好きです。

イブイブの23日は、夕方まで部屋でぐだぐだしていました。
日が暮れて活動をはじめ、電車に乗って南福島のゼビオへ行きました。
暖かい服がほしいなぁ、靴もほしいなぁ、なんて思って行ったら、ついついあれもこれもと衝動買いしてお会計1万4千円也。
今年は一緒に過ごしてくれる女の子もいないし、自分にクリスマスプレゼントだと思って、値札も見ないで欲しいものを買い物かごに突っ込んで行きました。
そして夕飯は近くの大阪王将で天津飯ラーメンセット。
南福島の大阪王将とか、4年も住んでいて初めて行きました。
東日本にはお店ないけれども、551蓬莱の方がおいしいなぁって思いました。
ゼビオで家族連れとかカップルとか夫婦とか、いろんな人たちが買い物に来ていたわけですが、微笑ましいなぁと思いつつ、一緒にジョギングとかしてくれるパートナーと出会えたらいいなぁ、なんて想像していました。

卒業論文、なんとか結論までたどり着いたので、指導教授に提出しました。
ただいまコメントを待機しています。
2011年3月11日に東日本大震災を福島で経験して、本格的に震災復興に向き合い始めたのが、12月。
きっかけはJASPでしたね。
JASPは、福島大学の意識高い学生のほとんどが何らかの形で関わったのではないでしょうか。
その後は、前の指導教授について震災が福島の経済に与えた影響などを調べていって、2012年9月には中国四川省で四川大地震の復興に関するフィールドワーク。
今年の3月で前の指導教授は新潟大学へ異動となり、路頭に迷いかけた私を救ってくださったのが今の指導教授です。
2011年12月からずっとずっと震災復興のことを考えていて、2年がかりで書き上げた卒業論文が「東日本大震災における広域支援メカニズムの考察2008年中国四川大地震におけるペアリング支援の検証をもとに―(仮)」。
今の指導教授はご専門がヨーロッパ経済であるにも関わらず、中国を題材としている扱いにくいこの私をよく指導して下さっていると感謝しています。

先日、春から渡米する友達と福島駅近くのサイゼリヤへ行きました。
「福島駅から東北本線に乗って、山の上の金谷川駅へ向かう途中の夜景がきれいだよねー」っていう話もほどほどに、なんで今の進路を選んだのか、という話になりました。
私は幼いころから電車に乗って出かけるのが好きでした。
小学生くらいまで電車の運転士になりたい、と思っていましたが、それもどこへやら、いつにまにか夢は総理大臣に変わっていました。
テレビのニュースで、社会が抱える課題に興味がって、私が政治家になれば一変に変えられるはずだ、と思ったからです。
しかし慶應義塾大学の政治学科へ進学できるわけでもなく、親から離れたところで仕送りをもらってのんびりスローライフを送ります。
初めての一人暮らしで、念願の東北暮らしで、私は授業の合間を見つけては東北中を駆け巡りました。
いちご狩り、さくらんぼ狩り、桃狩り、ぶどう狩り、東北から離れた広島ではみかん狩りまで体験しました。
そんな中で特に惚れた街は、青森県の弘前でした。
4年間で弘前は春夏秋冬、全部行きました。
最初に文字通りの東北一周をしたのは、大学1年のクリスマスでした。
前日はらくだのたまごでサークルの忘年会があって、前にやさしい先輩が座って、思い出の飲み会になりました。
そこから翌日の始発電車で仙台まで出て、そこから気仙沼、大船渡を通って盛駅から三陸鉄道に乗車。
盛駅でシチューを配っていて、そこに遭遇した私が岩手日報の記者に取材されて翌日の新聞に載って、車窓から見える家の立派なことを聞けば気仙大工の話を教えてもらい、三陸鉄道に乗ったら産直列車という地元で観光振興をやっている奥さんと仲良くなって、釜石駅のひとつ手前の平田駅で降りて鉄の資料館に寄って、そのあと国道45号線沿いに釜石市内まで歩きました。
海岸沿いには「津波、逃げろ」と看板があったりして、三陸が何度も津波に呑まれてきた歴史を感じて、釜石からJR山田線で宮古へ出て、宮古に泊まって翌日は浄土ヶ浜とか行って、三陸鉄道とJR、青い森鉄道を乗り継いで三沢に立ち寄って、2日目のクリスマスイブは青森市の雲谷高原に宿泊。
3日目に青森の友人と会って、4日目に秋田、5日目に山形と抜けて福島に戻りました。
もし、震災がなければクリスマスの東北一周旅行をここまで深く記憶することはなかったと思います。
昨年のクリスマス、ほぼこの逆ルートで東北一周をしました。

2011年3月11日以後、くりかえしくりかえしテレビで見せつけられた津波の脅威。
2年が経ってがれきの撤去が済み、スーパーゼネコンは強く関与せずに地元主体で動き始めた復興。
卒業論文には、4年間、目に焼き付けた東北を思い出しながら、阪神・淡路大震災、新潟県中越地震、中国四川大地震、東日本大震災の論文と当たりながら書いていきました。
もっと専門的に勉強して、この道を究めることも一度は考えましたが、それはやめました。
次に大規模な災害が起きるようなことがあれば、行政面ではなく、民間企業・1市民から復旧・復興に関わっていきたいと思っています。
さて、話は電車の運転士に戻りますが、ある時、私は電車を運転したいのではなく、電車に乗って出かけたいのだ、ということに気がつきました。
建前では偉そうなことを言っていますが、出張が多い、というのも今度の会社を選んだ1つの理由でもあります。
野村のビジネスマンはシンガポール出張でも日帰りだとネタにしています。
さすがにそこまでやると人間離れしていますが、全国に支店を持っている会社よりも、首都圏と京阪神にしか拠点を持っておらず、そこから日本中へ電車に乗って出張するほうが私のとっては理想的なのです。
三つ子の魂百まで、と言ったところでしょうか。

小田和正とTBSが毎年放送している「クリスマスの約束」。
13回目の今年は、12月25日(水)23時19分から2時間にわたって放送されます。
クリスマスにしても、お正月にしても、毎朝のジョギングにしても、誰かと一緒であることが、一番の幸せなのかもしれません。
メリークリスマス。

2013年12月19日木曜日

新幹線の中で考えること

東京駅を1740分に発車した仙台行きの新幹線に乗っている。
すっかり夜となり、車窓には都心のビル群が輝いて映る。
iPodで音楽を聴きながら福島までの旅路をくつろぐ。
今日は8号車の19E席で、デッキと車内を仕切るドアが目の前にある。
いつもであれば私はJRのネットで格安きっぷを予約して、真ん中あたりから車内の後方を選ぶのだが、今回はみどりの窓口できっぷを購入した。
行き先は、京都だった。

京都には会社の支社があり、昨日は関西地区で採用された学生と関東地区で採用された学生が一堂に会した。
会社では社長のあいさつと昼食会、簡単な研修があり、夜は近くの居酒屋で親睦会が行われた。
メインは、おそらく勤務地の発表だったと思う。
一般的な企業では入社後の研修を経て勤務地が決まるが、私の内定した会社はまだまだ新興企業で採用人数も少ないので、入社式前の昨日に発表されたのだ。
私は、東京本社の勤務に決まった。
自分のまだ知らない土地へ行きたいという気持ちもあったので、少し残念ではあるが、しなくて良い苦労ははぶかれるべきかもしれないと思った。
これで、とりあえずは一段落したことになる。

幼いころから東北地方に住みたいと願い、その夢を大学進学にあたるところで実現した。
東北はあこがれの地で、この4年間は桃源郷にいるかのごとく毎日毎日幸せだった。
でもその一方で、クリエイティブさに欠けていて、少し物足りない感じはあった。
変革を好まず、保守的な考えを持った人の多い世界なのだ。
賃金の面でも疑問はあった。
そして縁あって比較的すぐに東京の会社に決まった。
文句なしの結果だと思っているし、今は十分に満足している。
方向性も定まったことで、今後の見通しも立ってきた。
それなのに、なぜか悶々としている。
それは恋愛も含まれているし、自分自身の持っている大志に関することでもある。

最後の1カ月はまったく顔も合わしてくれなかった彼女にふられたのが10月。
ショックは大きくて、それからしばらくはふらふらしていたが、勉強にも集中できた。
11月上旬にたまたま立ち寄った神社で引いたおみくじに救われて立ち直り始めたけど、中旬に価値観の変わる出会いがあった。
これまでは疑問に思ったことをとことん突き詰めようとしていたけれど、それは他人に聞いていいものと、本から学習しなければならないことがあるのだと教わった。
今でもまだそれを消化しきれていなくて、ときどき考え込んでしまうことがあるけれども、それが大人への第一歩なのかもしれないと思って、前向きに生きている。
不特定多数に向けて発信することは、ありとあらゆる自分では想像できない部分への影響をも想像して書き込まなければならない。
小学生の頃はテレビを見ながら、なんで大人たちはこんな簡単なこともできないのだろう、と思っていたけれども、いざ自分が成長して年齢なりの思考ができるようになってくると、いろいろな課題はなんて難しいことなのだろうと思ってしまう。
これらをひとつひとつ解決していたら時間は足りないし、その間に新しい課題も出現するし、一気に解決しようとしたらとんでもない影響がまったく予期していない個所で生じたりするし、社会は深く密につながっているということまで考えられるようになってきた。
結局、もとに戻ろうとする力が強く働いてしまう。
そういうものなのかもしれない。

街がざわざわした雰囲気の12月は、嫌いだ。
2月や6月のように、落ち着いていたい。
新幹線は、新白河駅を通過してみちのく路に入った。
あと20分で福島駅だ。

2013年12月9日月曜日

うぬぼれ未公認会計士

今朝は、5時半に起きて散歩がてら近くの神社へお参り。
昨夜から舞っていた雪は、積もることはなかった。
散歩の帰りがけに自動販売機でほっとレモンを買って、昨日のうちに準備しておいた菓子パンをほおばって朝ごはん。
今日はいよいよ「公認会計士」短答式試験の本番である。

6時半に部屋を出発して、金谷川駅を6時47分に発車する始発の下り電車に乗る。
福島駅で仙台行きの電車に乗り換え、8時半に仙台に到着。
試験会場には、10時10分までに行けばよいので、それまでアーケードのマクドナルドで時間調整。
2階へ上がると、日曜日の朝にしてはお客さんがかなり入っていたが、そのほとんどがテーブルに顔を伏せて寝ており、店内のBGMだけがガンガンに流れ、独特な雰囲気を醸し出していた。
今さらじたばたあがいても仕方ないと思いつつ、1時間ほど企業法のテキストを眺める。
電車の中でもときどき車窓を眺めながら読んでいたので、結構復習が進んでいた。
そして9時40分にマクドナルドを出て、セブンイレブンでペットボトルのお茶と100円おにぎり、ウイダーインゼリーを買って、会場であるハーネル仙台に到着。

試験会場に着くと、8割方の席はすでに埋まっていた。
私の席は、左端の前から2番目、しかも1番前は欠席という、コンディションは抜群だった。
10時10分に試験監督が13人も入ってきて、扉が閉まる。
問題用紙が配布され、10時30分に企業法の試験開始。

1科目目は1時間で終了し、もうお昼休み。
さっきセブンイレブンで買ったおにぎりを食べて、自動販売機でブラックコーヒーを買ってくる。
管理会計論のテキストを開くも、これは理論でどうのこうのなるレベルじゃないと思って10分でやめる。
つづいて監査論のテキストを開いて、こちらを1時間ほどにらめっこ。

12時40分、再び試験監督がぞろぞろと入ってきて、次の試験の準備が始まる。
2科目目の管理会計論と3科目目の監査論は一体となっており、13時から2時間の試験時間がとられた。
私は塾で言われていた通り、初めの30分で監査論を片づけた。
そして残りの90分をかけて管理会計論。
何とかぎりぎり全部の問題に手をつけた。

こうして3科目が終わって、いよいよ次はラスボスの財務会計論。
4科目目の財務会計論は、16時から18時までの2時間。
塾で答練を解いた時に解説授業で、4回は回すように、と言われたので、一目見て面倒くさそうな問題は飛ばして、なんとか4周した。
それでもまったく手につけられなかった問題が2問あった。

栄養ゼリー食べて、ブラックコーヒー飲んで、目薬さして、やれることは全部やった。
1日、頭フル回転。
4科目終わって、ふらふらだった。
それでも全部回っていなかった。

これが国家権力かと思った。
世界第3位の経済規模を誇る国の、ビジネスの第一人者たちの超エリートが寄り集まって作られた問題が、これか、と思った。
これが最高峰。
これが、頂点なんだ。
魅了された。
女の子以外で惚れるようなこと、6年ぶりだ。
この感覚、公認会計士になりたい、そう思った時のあの時の感覚と同じだ。

もう勉強をやめたくて何度も諦めかけて、ガリガリに痩せて、頭が禿げるくらいまでやったけど、それでも足りない。
納得した。
これが人生をかけてもやる価値のある問題なのだと。
本当にすべてを断ち切って、失える物はすべて失ってしまうくらい、それくらいの意気込みでやらないと受からない試験、これが頂点なんだと思った。

公認会計士という職業を知った時、「これだ!」と直感した。
私にはこれしかないと思った。
よく分からないけど、根拠は何もないけど、直感だった。
その直感からしばらくして勉強を始めて、やっとここまで来た。
今日、あと少しだ、と直感した。
勉強には4年間を費やし、思いはすでに6年目に入ったが、今まで具体的なイメージがつかなかった。
夢のまた夢だ、心のどこかでそう思っていた。
どこかで、できない、と思っていた。

でも今日、できる!と心の底から感じた。
ここが頂点。
これが解ければ、公認会計士になれる。
どんな公認会計士も、この道を通ってきた。
私も絶対にできる。

私はこれから就職する。
同志たちは、就職活動をせずに、それこそすべてを犠牲にして勉強してきた。
彼らは卒業後、不安定になる。
その覚悟をしてまで取り組んでいる。
それは本当にすごいと思う。
受験勉強とは、そういうものだと思う。
何かを得るためには、何かを犠牲にしなければならない。
まさに今日、それを実感した。
私はまだまだぬるい。
でも、卒業までまだ4カ月ある。
この期間に詰めれるところまで詰めていって、今度の5月の短答式で受かろう。
そうすれば今回受かるであろう同志たちとも、8月の論文式で同じ土俵に立てる。
4年間かけて、ここまで登ってきた。
大学の4年間、いやそれ以上をかけてもやる価値のあるものだと思った。
あと少し。
あともう少し。

もう卒業旅行の行き先は決まった。
ヨーロッパとかアジアとか、そんな近くない。
「世界」だ。

2014年11月14日(金)合格証を手にしよう。
私の卒業旅行は、そこから始まる。

オレ、マジかっこいい。笑