2013年5月30日木曜日

【読書記録】中国経済論


堀口正(2010)『中国経済論』世界思想社

本書は14章から構成されており、中国経済の概要、農村経済、地域格差と貧困問題、対中経済協力、人口問題、財政問題、日中ものづくりの特徴、戸籍制度と労働移動、人民元切り上げの効果、環境問題、観光開発、貿易構造、中国企業の国際化、WTOからFTAへという題で中国の現状について詳しく述べられている。

1949年に共産党政権による中国が成立してから1978年までの約30年間は「自力更生」(自らの力で国家を発展させる)の時期、1978年から今日までの約30年間は「対外開放」(外国の資本や技術を通じて国家を発展させる)の時期に区分できる。
1949年から1978年までの時期は、4952年の経済復興期、5357年の第1次五カ年計画期、5860年の大躍進期、6165年の経済調整期、6676年の文化大革命期、77年前後の洋躍進期に分けることができる。
そしてこれまでの「自力更生」による社会主義建設が挫折し、対外的な開放政策を通じて経済成長が実現し、中国型の社会主義市場経済が形成されていく。

農村経済の章では、中国の社会主義が人民公社体制を中心に展開していった経緯を述べている。
1次五カ年計画以降、互助組、初級社、高級社、そして人民公社へと組織の編成替えを繰り返し、同時にこれらの組織を中心として農業経営が行われていた。
しかしながらこうした農業経営では、生産が政府の政策に基づいて行われていた為、経営効率はよくなく、消費者の需要を満たすものではなかった。
1978年以降、これらの矛盾や問題点を解決するために「農業生産請負責任制」が導入され、自由に市場で販売することを認められたことから農民の生産意欲を刺激し、食糧生産量は大きく増加していった。

中国の財政制度は1980年代まで「統収統支」「高度集中管理」の原則のもとで行われていた。
統収統支とは、
(1)いっさいの収支項目、支出方法と支出指標をすべて中央が統一的に設定すること、
(2)いっさいの財政収支はすべて国家予算に組み入れられ、収入はすべて中央に上納され、支出は中央から支給され、年度末の余剰金も基本的にはすべて中央に上納されること、
(3)財政的権限は中央と大行政区に集中しているが、中央を主とすること、
である。
一方改革開放後は、「財政請負制」の実施により財政の地方分権が進展し、1994年以降は「分税制」の実施により、地方分権と中央集権が混在するようになっている。


1978年の対世界における中国の貿易シェアはわずか0.8%であったが、2007年には約10倍の7.7%にまで増加し、アメリカ、ドイツに次ぐ貿易大国になっている。
またその間に輸出品目も一次産品から工業製品へとシフトし、構造上も、原材料や半製品を外国から輸入して中国でそれらを加工して輸出するという「加工貿易」へとシフトしている。しかしながら、そうした輸出の多くは外資系企業に支えられており、2007年の外資系企業の輸出額シェアは約60%で、そのうち機械製品の輸出については70%台に達している。
中国の企業が外資系企業に代わって輸出の多くを支えるようになることが今後の課題であろう。
200112月にWTO加盟を果たした中国は、当初の予想通り、世界経済との関係を強化し、貿易量を大幅に増加させ、経済発展も順調に進んでいる。
WTOの原則適用のために生じる資源配分の非効率に対する課題については、FTAの締結による政治的な決断も重要である。

【携帯投稿】週末は六魂祭

こんばんは。

24,25日の夜勤、26日の仙台、27日の新潟、28日の福島での大学のゼミを乗り越えました。
この一週間はきつかった...

今週末は、いよいよ東北六魂祭です。
金・土の夜勤、日曜の夕勤に入っています。
今回は、覚悟です。

1年で1番忙しい日になるかもしれません。

ただ、これを乗り越えればシフトも減る見込みで、しばらくは落ち着いた日々を送れそうな気配です。


月末になってきたので、家計簿の決算手続きに入ったのですが、あらあら、収入は多いので赤字にはなっていませんが、緊縮予算ということで計画を立てたにも関わらず、20%も超過してしまいました。

秋田・青森へ行って、新潟へ行って、飲み会にも行って、なんだかんだで出費を許してしまいました。
来月の予算配分はどうしようかなぁって思っています。

3週目に帰省しようか考えています。


今日のサークルでは、発見がありました。

新しく入って来た1年生が、さっそく付き合っているようなのです。
その背中を押したのが、僕が最初のサークルで話した

「大学は勉強だけをする所ではないからね」

というコメントだったそうなのです。


昨日のゼミ飲みでは、3年生が進路の話を持ちかけてきました。
民間就職に向けたガイダンスが始まり、一方では公務員講座が始まりました。
ここでも持論を展開し、途中から教授も加わって白熱講義になってしまいました。

いい意味で影響力のある人間になりたいな、と思いました。
くれぐれも無責任な話はしないように...と!


今年度が始まって、3年ぶりにいろいろな人と出会う時期に差し掛かっている気がします。

大学4年生として後輩との交流、そして社会人1年生へ向けての準備として先輩との交流、最後の1年を共に楽しむ仲間との交流と、見通しが立ち、少しばかりでも結果を出したことで、周りの見る目が変わったようです。

思い返せば進学先の大学が決まった時も同じような感覚でした。

前回では親の愚痴をダラダラと書きましたが、大学へ来たからこそ親とは違う道を歩めるのかな、なんて最近考えたりしています。
あの呪縛に囚われないようにして、「未来ある人」をめざそうと思います。

やっぱり僕は、年齢がモノを言うと信じていますね。


2013年5月24日金曜日

【PC投稿】落とし所のない話

(新緑の福島大学)

もうすぐ暑い夏がやってきますね。
今年はどこへ行こう。
最後の夏くらい福島で過ごそうかな、そんなことを考えている今日この頃です。

こんばんは。
いかがお過ごしですか?
私は、ぼちぼち…というところです。
相変わらず精神の落ち着かない日々を送っています。

昨日は夕方に大学で日本酒の試飲会がありました。
とても楽しいひとときでした。
少し酔ったのですが、学食で夕食をとって酔いがさめたので、経済学部棟にある自習室で少しお勉強。
それから夜の9時過ぎに7階の研究室へ行くと、教授と数人の学生がまだ残っていました。
夜ののんびりとしたひとときで、本を読んだりしゃべったり、のんびりしてきました。

学食を出た時、ラクロス部の2年生と会いました。
結構仲良くしている後輩です。
実は先週の金曜日、別の2年生とケンカ別れになってまだ仲直りをしていません。
一部の2年生は自己主張が強すぎて前々からあまり合わず、また、親しかった3年生は、主将と副主将を残してそろって退部してしまい、私には居づらい環境でした。
そしてついに2年生のひと言ふた言に腹が立ってしまったわけですが、もう知りません。
私はスネちゃいました。
別に向こうからアクションを起こしてきたわけではないので、お互い様な感じはありますが、今でも思い出すだけでイライラしてきます。
ケンカの場に居合わせた副主将は、私に気を利かせてくれて連絡をくれますが、自分自身はどうも気が乗りません。
このもやもや感をいつまで続けるつもりでしょうね。
自分でも嫌になります。

5月になって夜も過ごしやすい気温になってきました。
朝に日が昇る時間も早まり、1日が長いです。
もうすぐ夏至なのですね。

明日から2日連続の夜勤で、給料日後ということもあり覚悟です。
来週は六魂祭があり、2週間連続で気合いを入れて仕事に臨まなければならないので、少し不安です。
しかも今度の日曜日は、大学生協の旅行に関する件で仙台へ行くことになりました。
往復の新幹線を取ってもらい地下鉄のフリーパスももらって、何を喋ろうかなと先日パワーポイントを作りました。

振り返ればケニアへ行ってからもう2年が経ったのか、と思います。
当時の写真と見比べると、少し、ほんの少しばかりですが成長した顔立ちになった気がします。

そんな私は、相変わらず将来のことに不安を感じています。
もうどうすればいいのでしょうね。
気を紛らわすために勉強したり本を読んだり。
それでも何もわからず、結果も出ずで、焦るばかりです。

ほぼ2回連続のような感じで精神論の話を持ちだして、本当にすいません。
この前、ある女の子が「あたしは働いてる人と結婚する。または未来がある人。」と言っていました。
その通りだよだなぁと思いました。
結婚すれば相手の経済力で人生変わるわけで、自分の母親を見てきたから尚のこと納得がいきます。
では、問題は父親です。
20年間背中を見てきて、尊敬していますよ。
でも厄年を過ぎてからどうも調子がよくありません。
それまでのつけを払っているかのようにも見えますが、それが父の生きざまなのかな、とも思ったり。
このままだと私も父と同じようになってしまわないかと不安でなりません。
調子の良いことを言って実態を伴わなくて、好きなことをやってあとでつけが回ってきて。
私とそっくりで、嫌になってしまいます。
最近は顔立ちまで似てきてしまって、もう氏にたいです。
でもきっと、少しのひねり、おそらくはある分岐点で右へ行くか左へ行くかを変えるだけで、途中から違う人生を歩めるのかな、という期待も抱いたりしながら過ごしています。

でも考えれば考えるほど父に囚われてしまい、動けば動くほど父に似ているような気がして、彼の呪縛からなんとかして逃れられないものだろうかと考えています。
でもふと油断した隙に悪魔がすっと入ってきて、父と同じ行動を起こしている自分がいて、悲しいです。

はて、将来有望株だとインチキしている私が、本物になることはできるのでしょうかね。
普段から「マイナス思考の人のそばにはいたくない」とか思っているくせに、自分がマイナス思考で矛盾していますが、こんなぐだぐだ話を書くだけで少し眠れそうになってきたので、ここまで付き合って下さってありがとうございました。

もう泣きたいですね。
2週間後に日商簿記検定試験を控えています。

2013年5月22日水曜日

【携帯投稿】魅力ある自分へ

こんばんは、JunJunです。
日曜日に買ったイエローテイル・カヴェルネソーヴィニヨンというワインを、甘い甘いと文句を言いながら何だかんだで毎日飲んでいます。
コンビニでもスーパーでもどこでも千円くらいで売っているワインです。

さて、進路も決まって浮かれていたJunJunですが、最近もとの調子に戻ってきました。
昨日は内定が出た会社に卒業見込証明書を送り、今日は前々から紹介されていた奨学金付きの広島大学院への進学を苦渋の思いで断りました。
選択肢が少なくなっていくのは、寂しいですね。

ただ、僕はあくまでも公認会計士をめざしております。
中学のころからの夢。
高校に入って固めた夢。
大学でずっと追い求めている夢。
夢はいきすぎると「儚」く終わってしまうそうですが、それでも僕は公認会計士になりたいと思っています。
この4年間、片時も肌身離さず『公認会計士になるには』という本を持ち歩いて来ました。
でも最近、気付いたんです。
ただ持っているだけじゃダメなんだと。
やっぱり勉強しないといけないのだと。
当たり前ですよね。
でもそれだけ資格に恋してしまったんです。

公認会計士になったらね、あんなことしたい、こんなことしたい、こんなふうに活躍したいって思っちゃうんですよ。

そんな片手間での就職活動。
納得いく会社に決まりましたよ。
でも、それで僕の人生いいんですかって。

僕は学歴がないし、信用もないし、カネもない。
こんな男、誰が寄り付く?
女も寄りつかないのに、世間が寄り付きますか?っていうんです。
銀行もお金を貸してくれないでしょう。

先日、新幹線で隣に座った男性と福島市内で食事してきました。
グリーン車に乗っていた男性です。
週に3日、福島と東京を往復しているそうです。

はい、お年を召された会社経営者です。
彼は特に資格を持っているわけではありません。
ただ、理系の技術者出身です。
そして、ケガさえしなければ卓球で日本一になっていたと自負していました。

その食事会には、福島県庁に勤めるスポーツ振興の偉い人と、外資系コンサルティング会社から福島大学復興研究所に移籍した優秀な方も同席して下さいました。
彼らは卓球で繋がっているそうで、2人とも社長を慕っていました。
さすが社長で、大学4年生が背伸びして後輩にご馳走するようなスズメの涙ではなく、おいしい料理やお酒を4軒にも渡って全額ご負担で案内して下さりタクシー代まで出してもらって、翌朝の新幹線で颯爽と都内へ出勤されました。
今度は「組織で出世する方法」を伝授していただくお約束をしましたが、本当に格好良い紳士だな、と思いました。

さて自分の状況に戻り、いつまで経っても公認会計士試験はおろか日商簿記1級にすら受からず、本当に残念でなりません。
クソです。

今日の昼間に2か月前に別れた元カノから連絡が来て、「Junくんが言っている意味が最近分かった」と言われました。
僕は「将来がわからないから結婚はまだまだ」と言ってきましたが、元カノは「結婚したい結婚したい」と聞きませんでした。
それで別れたのでした。
元カレの僕が言うのもアホらしいですが、元カノはなかなかモテル人でしたから、僕と別れた後にエリート男性と派遣男性と接触したらしいのです。
そこで派遣男性は「結婚したい」と言うのに対し、エリート男性は「付きあっても良いけど、結婚はまだまだ」と言ったそうなのです。
それで僕の言ったことを思い出してくれたそうなのです。

僕は日頃から結婚と恋愛は別だと考えるようにしていて、元カノが理解してくれたことは嬉しいのですが、肝心の僕自身は、自分のことになるとそうも考えていられないのだな、と最近気が付きました。
他人から言われると悔しいもので、何とか信用を得たいと思うようになるのですね。
何をするにも社会からの信用は大事です。
「すごい」と思われなければ、誰もついてはきてくれません。

最近では「3K」ならぬ「普通の男」が求められているそうですが、僕にとっては普通も3Kも変わりません。
これほど女性が活躍する社会ですから、のんびりしていてはいけないと思いつつも、なかなか集中力がつづきません。

かつての大学受験の時と同じように、点数が伸びないでいます。
これから就職しても、成績はつきまとうことでしょうから、どうすればよいのか考えてしまいます。

下の新聞記事にもあるように、ファンづくりが大切だと言っています。
1人でも僕のファンができるよう、なんとかしないといけません。

本当はファンの数なんてどうでもいいんです。
公認会計士の先にある夢が叶えば、それでいいのです。


【読書記録】カール・ポラニー『大転換』



カール・ポラニー(1975)『大転換―市場社会の形成と崩壊―』
吉沢英成, 野口健彦, 長尾史郎, 杉村芳美 , 東洋経済新報社

本書は、第二次世界大戦中にアメリカで書かれた。
ポラニーの目的は、19世紀に全盛となった市場経済というひとつの特殊な経済システムのもつ社会的な意味を明らかにすることである。
本書で、複雑な絡み合いと諸矛盾とを克服するためには、相互依存しあう人間の包括的な結合統一を発見するときであると示唆している。
本書は、第一部「国際システム」、第二部「社会の自己防衛」、第三部「トランスフォーメーションの進行」から構成されており、第一部では、産業革命を前後とする19世紀から20世紀初頭にかけての歴史を追っている。
第二部では、社会の中における市場の役割について説明しており、また、その市場が人間に及ぼした影響について述べている。
第三部では、社会の変化に導かれて政治も変化しており、いっそう高度で複雑になる産業社会の課題について述べている。

通常われわれが行っている取引行為について、古代では財の地理的偏在の結果による遠隔地取引が行われていたことを示すために、本書では、
「取引は必ずしも市場を伴わなかった。対外取引は、もともと、交換というより冒険、探検、狩猟、海賊行為そして戦争といった性質を帯びたものである。それは、双務性だけでなく平和生をもほとんどもちあわせていない。たとえその二つを持ちあわせていたとしても、対外取引は、通常、交換原理ではなく互恵原理にもとづいて組織される。」(p.79,L.13-L.16)
と述べている。
しかし、この取引が平和的交易へと移行していき、もっと後の段階になると、市場が対外取引において支配的になると説明している。
「新しい全国市場は、当然、ある程度まで競争的ではあったが、支配的であったのは競争という新要素ではなく統制という伝統的特徴であったということ」(p.88,L9-L.10)
とまとめている。

市場システムの発展に伴い本書では、
「労働とは、雇用者としての人間ではなく被雇用者としての人間について用いる専門語であるから、労働の商品化以降、労働の組織は市場システムの組織とともに変化することになる。しかし、労働の組織とは民衆の生活様式そのものの言い換えに過ぎないのであるから、このことは、市場システムの発展は社会組織自体の変化を伴うということを意味する。人間社会は、ことごとく経済ステムの付属物と化してしまったのである。」(p.100,L16-p.101,L2)
と述べている。
商品化された労働力が市場に密接につながり、かつて人間主体であった社会が、経済主体の社会へと代わってしまったことを示しているようである。

貧民を救済するのではなく労働を強制する目的を持ったエリザベス救貧法に代わり、巣ピーナムランド法の下では、賃金が法律で認められた一定額の家計所得に達しないかぎり、雇用されていても救済の対象とされた。
このことは、最低賃金制度が整備されていないにも関わらず、所得を保障してしまったがために、
「雇用主がどんなにわずかな賃金しか支払わなかったとしても、地方税からの補助金が労働者の所得を規定の額にまで引き上げてくれたからであった。」(p.106,L6-L.7)
という問題を引き起こした。
本書では、
「長期的には、結果は身の毛のよだつようなものとなった。大衆の自尊心が賃金よりも投資を好むような低水準にまで落ち込むには、若干の時を要しはしたものの、賃金が公共の基金から助成されることによって結局は底なしに低下することになり、大衆は税に頼るようにと駆り立てられることになった。次第に、地方の人々は貧困化した。『乞食は三日やったらやめられない』という金言は、まさしく真理であった。給付金制度の長期的影響を抜きにして初期資本主義の人間的・社会的大敗を説明することは不可能であろう。」(p.107,L5-L.9)
と述べている。
このことは、今日の日本で社会問題となっている、生活保護の制度にもひとつの議論の余地を与えていることだろう。

貧困の一層の悪化と税率の引き上げは、今日いうところの潜在的失業の増加によるものであろう。
貿易の増加に伴い、
「貿易の急増が貧民の困窮をますます増大させる兆を生みだしたということがはじめて注目されるようになった。」(p.123,L5-L.6)
と述べている。
これは貿易の増加で地域的分業が急激に広がり、都市と農村における格差の急拡大と、社会不安を導いた。
ポラニーは、
「農業が都市の賃金と張り合えないことは、はっきりしている。」(p.127,L1)
と述べている。

工場の増加は、地域的分業の広がりを可能にし、市場経済の発展に寄与した。
社会構造が変化していく中でポラニーは、
「収益と利潤の原理にもとづく社会全体の編成は、重大な結果をもたらすに違いない。オーウェンは、これらの結果を人間性との関連で定式化した。」(p.174,L.1-L.2)
とオーウェンの思考に興味を示し、
「彼は所得ではなく、退廃と悲惨とを強調して、真理をついた。また、この退廃の主要な原因として、ぎりぎりの生存が工場に依存しているという点をやはり正しく指摘した。彼は、主として経済的問題だと思われていたものが基本的には社会的問題なのだという事実を理解した。」(p.174,L.10-L.12)
と述べている。
当時の労働環境がいかに厳しいものであったのかということを目にしていたに違いない。

市場経済の発展に伴い富が蓄えられていったが、強弱の差別が発生することによってバランスも崩れ、市場システムの自己調整機能は機能不全に陥った。
本書では
「自由主義理論においては、イギリスは、貿易世界においてはたんなる一原子であり、デンマークやグァテマラとまったく同じ地位にランクされていた。実際には、世界は限られた数の国からなり、貸付国と借入国、輸出国と実質的な自給自足国、種々の輸出品をもつ国と輸入・借入を小麦と化コーヒーとかのような単一商品の販売にのみ依存する国、などに区分できる、こうした差異は、たとえ理論上は無視しうるものとしても、実際上は、それらの重要性を理論におけるようには無視することはできない。」(p.280,L.4-L.8)
と記した上で、
「だが、こうなるためには、関係国が多かれ少なかれ世界分業システムに平等に参加していることが必要であったのだが、しかし、これは断然、事実とは相違していた。」(p.280,L12-L.14)
と述べている。
「しかし、借款は、武力介入の脅威のもとでのみやっと返済され、貿易航路は砲艦のたすけによってのみ維持され、進攻する政府の要求に応じて国旗がはいりこみ、その後ろから貿易がついていく、こうした事態が度重なれば重なるほど、世界経済の均衡を保つためには政治的手段が用いられねばならないのだということがますます明白になってきたのである。」(p.281,L8-L.11)
これは、今日でも十分に通用する理論であり、国際分業の根本的な思想であると考えられる。

そこで機能不全に陥った経済システムを立て直すために社会主義思想を取り込んでいる。
「社会主義とは、自己調整的市場を意識的に民主主義社会に従属させることによってこれを乗り越えようとする産業文明に本来内在する傾向のことである。」(p.312,L15-L.16)
と述べた上で、
「全体としての社会という視点からすれば、社会主義は、社会を、諸個人のきわだって人間的な関係―西ヨーロッパではつねにキリスト教的伝統と結びつけられていた関係―に変えようとする努力の継続にすぎない。経済システムの視点からすれば、これとは反対に社会主義は、私的な貨幣所得を生産活動の一般的誘因とすることをやめ、主要な生産手段の処分を個人の権利とは認めないものであるいう点で、それは眼前の過去からの根底的な離脱である。」(p.312,L.18-p.313,L.4)
と示しており、
「財産権の実質的内容は立法府の手で再定義されるとしても、その形式的継続性の保証が市場制度の機能にとっては重要なことなのだ。」(p.313,L.7-L.8)
と、極端な政策に踏み切ったロシアの政策に修正を加えている。
しかし、ロシアは、イギリスやフランスに始まる市民革命の最後であったロシア革命と、1930年代のまったく新たな発展の一部を形成した革命との二つから構成されている。
「二つの革命のあいだにはさまれた時期にロシアに決断を迫った要因のなかには、国際システムの破綻という事態があったからである。」(p.330,L.11-L.12)
と述べている。

最後の第21章では、
「市場ユートピアを放棄することによって、われわれは社会の現実と向き合うことになる。それは一方を自由主義、他方をファシズムと社会主義に区分する分離線である。これら後二者の相違は、本来経済的なものではない。それは道徳的かつ宗教的なものである。」(p.346,L.2-L.4)
としたうえで、
「社会の発見はかくして、自由の終焉でもありうるし、あるいはその再生でもある。」(p.347,L.12)
と述べている。
これまで、労働に対し適切な賃金が支払われていれば、幸福な世界がやってくると信じていた私にとって、本文では
「ロバート・オーウェンは、彼の雇用している労働者たちについて、早くも1816年に『彼らがどれだけ賃金を得たとしても、彼らの多数は惨めであるに違いない……』ということに気付いていた。」(p.399,L.4-L.5)
と述べており、衝撃だった。
しかし、その解決策として
「それから一世代後、ロバート・オーウェンは労働者たちに退廃の原因を『幼少期における放任』と『過重労働』とに求め、その結果、『彼らは無知であるがゆえに、高賃金を得てもそれを有効に使うことはできない』と考えた。彼自身は、労働者には低賃金を支払い、まったく新しい文化的環境を彼らのために人為的につくり出すことによって、彼らの地位を向上させた。」(p.399,L8-L.11)
と示されており、今後の社会のあるべき姿について、これまで私がイメージしていたものよりも、おそらく正しいであろう示唆を本書から学ぶことが出来て、とても有意義であった。

2013年5月18日土曜日

【国内旅行】春をもとめて『津軽の桜』

5月9日(木)今日は丸1日かけて東北1周の旅に出かけている。
前回は、0時に福島を出発して、5時に秋田県の角館を観光。
9時に白神山地「十二湖」にある青池を散策した。
今回はそのつづきで、黄金崎不老ふ死温泉に浸かって、青森市内で昼食を。
夕方に弘前公園の桜を見物して、福島へ戻るという旅行をお話します。

9時40分。
青池の有料駐車場を出発。
同行している上杉くん(仮名)は、先ほど神の宿る森「白神山地」で第一志望の企業から内定の連絡を受けて大変興奮されているので、ここからはしばらく私が車を走らせる事になった。

10分ほどで国道101号線に戻り、日本海に沿って津軽半島の西端の断崖絶壁を進む。
国道を15分ほど走ると、JR五能線のリゾート地区「ウェスパ椿山」に入る。
リゾートを抜けて艫作海岸を下ると、一軒宿の黄金崎不老ふ死温泉がある。
ここは度々雑誌やメディアで取り上げられているが、首都圏から700km近く離れており交通の便も良くないので、有名な割には混雑していない。
私が出かけた日は平日ということもあり、他に関東と関西から1組ずつのシルバー夫婦しかいなかった。

(不老ふ死温泉の露天風呂)

日本海と一体化したかのような露天風呂から眺める世界は、絶景である。
私がこの温泉を気に入っているのは、風景だけではなく旅館のフロントのやる気のなさもまた、好きだからである。
有名でありながら、人気の観光地とは一線を画しているところが良い。
初めて訪れたのは3年前の9月であったが、以来とても気に入って周りの人には勧めている。

そんな不老ふ死温泉では1時間30分のゆったり滞在で十分に体を休める。

11時30分に不老ふ死温泉を出発して、再び国道101号線を北上。
さっきから至る所で「不法入国者は、通報を!」という比較的新しい立て看板を見かける。
人口が少なく、東京から700km離れているとはいえ、新幹線や飛行機を使えば半日で東京まで行ける近さである。
しかも対岸の北朝鮮やロシア、中国は意外と近い。
ゴムボートで上陸しようと試みる輩も多いに違いない。

不老ふ死温泉から40分ほど走って、今度は千畳敷海岸へ。
あまりの強風でゆっくりと観光することはできなかったが、日本海の荒波に呑まれた奇怪な岩を眺めて、深浦町から鰺ヶ沢町に来ると、まもなく五所川原だ。

13時05分。
太宰治の出身地である五所川原を通過。
ゆっくりと観光する選択肢もあったが、昼食を青森市内で取る予定だったので、五所川原は次回へ。
おそらくここは、真冬に地吹雪を体験するのに向いているだろう。
国道101号バイパスを走って浪岡に抜け、ここから国道7号線を北へ。

14時10分。
青森駅前「おさない食堂」で昼食。
ここは青森駅徒歩2分にありながらホタテがおいしい食堂として有名である。
今回は、不老ふ死温泉で会った関西人のおじちゃんが「昨日行って良かった」と勧めてくれたので、少し足を伸ばして食べに来た。
昨年の12月に青森へ来た時は月曜日だったということもあり、このお店が定休日で苦い思い出がある。

昼もだいぶ過ぎてやっとありついた昼食は、大変おいしかった。
1,200円の定食を注文したが、こんなにもおいしいウニは初めて食べた。
ホタテもおいしかった。
青森へ来たらぜひ立ち寄るべき場所のひとつだと思う。
そして食堂のおばちゃんはさすが地元の人。
青森の訛りは日本語とは思えず、相変わらずのポルトガル語であった。

(おさない食堂の定食)

お腹がいっぱいで満足したあとは、観光施設アスパムでおみやげを購入。
きれいなトイレで用を足しましょう。

15時30分に青森市内に止めた車を出して、本日の最終目的地である弘前へと向かう。

国道7号線から青森ICへ。
ここから始まる川口までの東北自動車道680km。
私がよく通る浦和料金所は何十台も一度に捌くところだが、青森料金所は一度に10台も捌けないだろう。
本州の最果てから高速道路に乗り、黒石ICまで15分。
ETC平日昼間割引で600円。

黒石ICから国道102号線で弘前市内へ。

16時20分。
弘前大学の近くにあるUマートに車を止めて、大学を散策。
福島大学とはキャンパス内はまとまっており、都内にあるような私立大学に近い都市型大学だった。
Uマートで簡単な軽食を買い、市街地を抜けて弘前さくら祭りの臨時駐車場へ車を動かす。

17時30分。
この旅のクライマックス。
「弘前公園」到着。


(東内門。ようやくの春)

(夕焼けに染まる天守)

(北門と岩木山)

19時11分。
弘前を後にした。

早朝の角館も凛としていてうつくしかったが、夕方の弘前公園はもっとうつくしかった。

そろそろ疲れも出てくる頃なので、気を引き締めて一段の安全運転で帰路につく。

19時38分。
大鰐弘前ICから東北自動車道へ。
すっかり暗くなった帰り道を、いくつものトンネルで十和田を抜ける。
1回目の休憩は20時10分に花輪SA。
ここでは運転手の交代は行わずに先を急ぐ。

安代JCTで八戸自動車道へ合流し、次の休憩は岩手県は盛岡まで30kmの岩手山SA。

20時50分。
岩手山SAで2回目の休憩。
ここで40分休み、夕食を取る。
21時30分に岩手山を出発し、盛岡、花巻、水沢、一ノ関と南下していく。

23時20分。
3回目の休憩は、福島市まで残り100kmとなった宮城県中部の鶴巣PA。
ここで2回目の給油をどこで行うかを打ち合わせ、運転手を交代して出発。

日付が変わる前に仙台を抜けて白石を通って福島県に入る。
いよいよガソリンが残り少なくなり、あと一つで高速道路を降りるという手前の国見SAで1,000円の給油。

0時15分。
無事に福島飯坂ICで東北道を降りる。
大鰐弘前ICから380km4時間30分。
ETC平日深夜割引の適用で3,950円。

福島を出発して24時間が経ち、国道13号線を福島市内へ。
舟場町の交差点から国道4号線に入って、渡利のガソリンスタンドで最後の給油。
30L入って4,470円。

0時40分。
無事に帰宅した。
私は翌日、8時の新幹線で東京へ向かうことになっていたのでレンタカーは上杉くん(仮名)に託して5月の桜をもとめる旅は完了した。


今年は3月下旬に東京都内で桜を見て、4月上旬に奈良・京都の桜を、そして5月上旬に秋田・青森の桜を見ることができて、幸せな春だったと思う。
来年からしばらくは、ゆっくりと桜を求めて気軽に各地を回ることはできないかもしれないけれども、またいつか北東北の春を満喫しに来たいと思った。

おわり。

【国内旅行】春をもとめて『みちのくの小京都と白神山地へ』

さる5月9日(木)、日帰りで秋田・青森へ出かけてきた。
前日、私の大学入学時からの友人である上杉くん(仮名)の就職活動が終了した。
彼は大学1年の頃から地元紙も記者を志望しており、8日に最終選考があったのだ。
さすが上杉くんとあって、彼は第一志望企業1社のみを受け、落ちたら秋採用を受験すると話していた。
強気の彼であるが、内心ではかなり心配していたらしく、前々から最終選考の役員面接が終わったら、どこかへ出かけようと持ちかけられていた。
そこでふっと湧いて出た話のようであったが、「役員面接終わった!」という電話とともに、レンタカーを手配していて、その日の晩にちょうど満開の桜であった北東北をめぐる旅に出ようということになった。

5月8日は18時30分に福島市内のレンタカー店へ。
今回は日産レンタカーを利用。
大学生協で予約して行ったので、前日の18時から当日1日利用して翌日の9時までの返却でマーチが5,200円。
友達を2人誘って一時は4人で出かける話にもなったが、キャンセルされて結局2人だけでの出発となった。

5月9日0時に上杉くんのアパート前に集合。
セブンイレブンへ寄ったり所用を済ませ、0時45分に福島西ICから東北自動車道に入る。

1時40分。
仙台市北部の泉PAで1回目の休憩。
ここで上杉くんから私に運転を交代する。
運転手が2人態勢だと5分休憩で出発できるので効率が良い。

それまで比較的交通量の多かった東北道であるが、仙台を越えると一気に車が減る。
真夜中うしみつ時に、いよいよみちのくの路の奥へと進んでいく。
古川、築館、若柳金成とインターチェンジを過ぎてゆき、まもなく岩手県に入る。
3時前に北上JCTから秋田自動車道に入ると、2車線から対面通行に変わる。
隣で寝ていたのか起きていたのか知らないが、上杉くんが秋田道に入って「オレ運転したい!」と主張し始めたので、岩手県から秋田県に入ったところにある峠の真ん中にあるハイウエイオアシスに寄った。

3時25分。
錦織湖SAで2回目の休憩。
立派なサービスエリアだったが、夜の地方路線ということで自動販売機だけで、平日深夜の光景であるトラックの行列駐車もない。
ここでも5分ほどの交代休憩のみで、すぐに出発。

湯田、横手と通過して、3時58分に大曲ICを降りる。
福島西から2時間18分、ETCの深夜割引を使って料金は半額の3,050円。
だんだんと東の空が明るくなってきて、大曲から国道105号線を進む。

4時40分。
最初の目的地である秋田県仙北市の角館に到着。
天気は曇り。
まだ5時前にも関わらず、カメラを持ったおじさん達で旧市街は賑わっていた。
早朝でこの様子なので、おそらく昼間はまともな写真なんか撮れないような人の出なのだろうと思った。
そして桜が満開の季節ということで、早朝の気温は5℃。
大型連休が明けたにも関わらず、北東北ではこれからようやく春がなのだなぁと感じた。

(みちのく小京都『角館』の枝垂れ桜)

(桧木内川堤と朝靄)

(平成の世を映して)

角館は、秋田新幹線「こまち」号の停車駅にもなっており、東京駅から約3時間で来れる。
また、秋田内陸縦貫鉄道の始発駅ともなっており、ここからマタギで有名な阿仁を通って秋田県北部の鷹巣へと抜けられる。
ちなみに私は2010年の12月に初めて角館を訪ねたが、雪をかぶる角館もまた、美しかった。

さて、5時40分に旧市街の外れにあるファミリーマートで朝食を買って、次は世界自然遺産「白神山地」をめざして出発。

6時15分。
協和ICから秋田自動車道を北へ。
秋田市街の郊外を走って、6時55分に八郎潟の向かいに位置する八郎湖SAで3回目の休憩。
運転手交代で最後の秋田道の区間を走って能代南ICで降りる。

7時25分。
国道7号線を走って能代市街にあるガソリンスタンドで1回目の給油。
20L3,000円を入れて、いざ神の宿る森「白神」へ。

日本海と白神山地のすれすれの断崖絶壁を、JR五能線に沿って国道101号線を進む。
八峰町を過ぎると、秋田県から青森県の深浦町へと入る。

(国道101号線)


8時25分。
能代から国道を走ること1時間。
本日2つ目の目的地である「十二湖」付近に到着した。


(神秘の沼『青池』)

十二湖では、まず「日本キャニオン」と呼ばれるところへ行ったが、ここは大したことなかった。
岸壁自体は立派なのものだが、「グランドキャニオン」をイメージしてしまい無駄に期待してしまうところがよくないようだ。
もう少し実物に沿った名前はないかと思ってしまう。

次に立ち寄ったのが王池。
事前にインターネットで調べたことによると、ここが無料駐車場で青池の近くは有料と書いてあったのだ。
とりあえず無料駐車場に車を止めて付近を散策するが、落ちぶれた観光地の何物でもない。
ひとつふたつある民宿のような食事処のような建物が、特にそれを際立たせている。
おまけに厳しい冬場の環境ゆえか、屋根が真ん中で曲がっており、無残な姿と化していた。
そんな中に熊が1頭狭いところで飼われており、牢屋に入れられたようなかわいそうな姿であった。
そして観光客は1人もいないところがまた萎える。

このような王池は後にして、車で青池へと向かう。
結構距離があるようだったので、車で青池の近くの有料駐車場まで乗り付けるが、駐車料金は400円であった。
森の中を長い時間歩くことを考えたら、十分な値段だろうと思った。

有料駐車場から青池までは歩いて少し。

そして駐車場から青池まで歩いている途中でハプニングは起きた。
上杉くんの携帯電が突然鳴りだした。
出ると、昨日最終選考を受けた第一志望の企業からの電話であった。
上杉くんは道路の真ん中で正座して、受話器に耳を傾ける。
次の瞬間、ガッツポーズ。

数人のご老人が彼の側を不思議な目で見ながら通るものだから、私が代わりに「彼は今、本命企業から内定の電話を受けている所です」と解説した。

神の宿る森で、彼は神のお告げを聞いたのであった。


次回は、雑誌でよく取り上げられている黄金崎不老ふ死温泉から青森市内で昼食を取り、弘前公園の桜を眺めます。

2013年5月2日木曜日

【携帯投稿】兜になったお姫さま

こんばんは。
4月29日から5月2日の3泊4日の日程で埼玉に帰省しているJunJunです。

29日は、金谷川を9時47分に発車する東北本線上り列車に乗りました。
郡山から東北新幹線「やまびこ132号」で大宮へ。
大宮から東武野田線と伊勢崎線を乗り継いで、実家の最寄り駅である東武動物公園駅には、12時06分の到着。
そこから歩いて10分ほどです。

昼食は家族で近くのファミリーレストランへ。
夕方は、実家から車で15分ほどの東北本線新白岡駅から湘南新宿ラインで池袋へ。
午後6時に池袋駅の「いけふくろう」前で待ち合わせをして、友人とディナーへ出掛けました。
29日はそのまま北千住の祖母の家へ行ってお泊まり。

30日は北千住のすし屋で昼食をとって、東武動物公園まで戻って来ました。

1日は午後モラージュ菖蒲へショッピングに出掛け、夕方は東武動物公園駅西口で喫茶店を経営している知り合いを訪ねました。

2日は大宮22時10分発の「やまびこ223号」仙台行き最終の新幹線で福島へ戻る予定です。


さて、今日はこの時期にふさわしい?お話でもしようかと思います。

昨日訪ねた東武動物公園駅西口にある喫茶店「キッチン&カフェ『オリーブ』」のマスターとは、合気道の道場で知り合いました。
知り合った当時はまだ、マスターは会社員でした。
私が大学に合格して福島へ飛ぶことが決まった時、マスターは稽古の後に春日部の『彩鳥』というやきとり屋へ連れて行ってくれました。
そこで結構な料理をご馳走になり、福島へ着いて生活が落ち着いた時、私はお礼に仙台の牛タンを贈りました。
それが4月の中旬であったと記憶しております。

牛タンを受け取ってくれるなり、今度はマスターが「寄宿舎のみんなと早く仲良くなれるように」と、アイスケーキを冷凍便で送ってくれました。
それが3年前のちょうど今頃、5月の大型連休前だったと思います。

その時、アイスケーキと一緒に折り紙で折った兜も入れてくれました。
その兜はとても丁寧に折られており、「マスターは器用だな」と思って、テレビの上に飾りました。

そのまま折り紙の兜は、東日本大震災でテレビが落下して画面が壊れても形を崩すことなく、新しい液晶テレビに買い替えたあとは、テレビの横で私の生活を見守ってくれていました。

そして昨日、折り紙の兜は、実はマスターのお姉さんが折って一緒に入れてくれたものだと知りました。

あれから3年の月日が流れていました。
マスターは私が福島へ飛ぶ直前に会社員を辞めて、料理学校に通い始めていました。

そして昨年、マスターはついに東武動物公園駅西口の駅前で喫茶店を開きました。
マスターが社長、お姉さんは店長、という設定で。

しかし、喫茶店がオープンして1週間も経たないうちに、お姉さんは病気で亡くなったそうです。

それでもマスターは、お姉さんの死を乗り越えて喫茶店を少しずつ軌道に乗せて行きました。
今ではお店にファンもできて、町民に、県民に、国民に親しまれつつある喫茶店になりました。

私は昨日、開業から1年ほどが経って初めてお店を訪ねました。
これまでの経緯を聞いて、涙が出るくらいマスターに尊敬の念を抱きました。
そして、何も知らない私を折り紙の兜を通して、マスターのお姉さんは天国から見守ってくれていたことを知りました。

あと1年で、お姉さんの形見となった兜は、福島を離れます。
来年には一緒に東武動物公園へ帰ろうと思います。

ありがとう、マスター。
これからもよろしくお願いします、お姉さん。


大型連休はどこも混雑して、帰省なんかするものではないと思っていました。
でも、今まで一番思い出に残るゴールデンウイークになりそうです。