2012年11月19日月曜日

【国内旅行】秋の日光

2012年11月9日(金)~10日(土)で、紅葉真っ盛りな栃木県の日光へ出かけてきた。

福島市内を9時に出発して、福島西ICから東北自動車道を東京方面へ上る。
途中、東日本大震災の復旧本工事などの影響で数kmの渋滞があったりしたが、ストレスなく福島県をあとにした。
高速に乗って2時間ほど走ったところの黒磯PAで休憩。
黒磯PAのあとは宇都宮ICで東北道を下り、日光宇都宮有料道路に入って一路日光へ。
こちらの有料道路に入ると、一気に首都圏ナンバーの車が増えた。
終点の清滝ICで有料道路を下りると、すぐにいろは坂を登り、まずは華厳ノ滝へとやってきた。

昨年は9月にやって来たのだが、その時はまだ暖かかったのでエレベーターを下りて滝の目の前まで行ったが、今回は晩秋な上に風も強くとてもそんな気にはなれなかったので、展望デッキから滝を眺めるだけにした。
しばらくの間、勢いよく流れ落ちる滝を眺めてマイナスイオンを浴び、そこから歩いて中禅寺湖畔へと向かった。

(中禅寺湖畔に停泊するアヒル)

中禅寺湖の方は、華厳ノ滝よりも風が強く歩くのもやっとだった。
湖は大荒れで、ボートは揃って岸に止められていた。

山の上は寒く紅葉も終わりに近づいていたので、華厳ノ滝と中禅寺湖だけを眺めていろは坂を下りた。
少し遅くなってしまったが昼食を取ろうと前回来た時にとても居心地の良かったレストラン「すいらん」へとやって来た。
二荒山神社の近くにあるロッジ風のレストランなのだが、観光地から一歩外れた裏道にあるためか、軽井沢の別荘のようなとても落ち着いた喫茶店である。

(レストランすいらん)

ここでかつカレーとゆばを注文。
とろけるようなかつに、刺激の少ないスパイス。
ゆでたてのゆばは絶品である。
昨年来た時には気がつかなかったのだが、店内にはフランス、シラク大統領のサインが飾ってあった。
しかもサービスで出せれるお冷のコップには、Made in Frenchと彫ってあった。
一見100円ショップにでも売っていそうなコップであるが、おそらくは大統領からのお土産だろうと思った。
そんな粋なレストランである。

食事をして幸せな気分になったあとは、本日の目的地である湯西川温泉へと向かった。

(客間からの景色)

宿泊は、湯西川温泉「彩り湯かしき 花と華」という旅館である。
夕食には松茸や霧降高原豚、とちぎ和牛などが出され、湯西川温泉を満喫した。

翌日、11月10日(土)は9時にチェックアウト。
湯西川温泉から霧降高原へ向かい、ソフトクリームを味わった。

(霧降高原 大笹牧場)

ソフトクリームを食べた後は、霧降高原から有料道路を下るのではなく、再び湯西川方面へと戻り国道121号・会津西街道を福島方面へと向かった。
国道121号には東武線直通の野岩鉄道会津鬼怒川線が並走しており、幼いころからよく南会津方面へ出かけていた私にとっては庭のような場所である。
このルートは絶景なまでに紅葉が美しく、また日光よりも奥であるということも重なり混雑がないので穴場的なスポットとしてお気に入りだ。
関東地方とは思えないような山奥の田舎道を進み、那須塩原から来る国道400号と合流するとトンネルを抜けて福島県に入る。
峠を越えて最初にあるのが田島町で、現在は合併して南会津町と名前を変えてその中心地となった。
阿賀川に沿って会津若松方面へと進む。
まもなくして、大内宿に到着した。

(大内宿)

(今は廃校となった分校の百周年記念碑)

日光から会津に移動するにつれて雲が広がって来た。
雨が降らないかと気にしながら、吐く息が白く寒い大内宿を歩く。
観光客が多く天気も良くないのでなかなか気分が乗ってこないのだが、宿場町通りから少し外れたところにある分校を見てテンションが回復した。

(大内宿の外れにある小さな神社)

さらに廃校となった分校の奥には小さな神社があり、背後の紅葉も美しく、来て良かったなと思った。

結局、大内宿では混雑していたために有名なネギ蕎麦は食べず会津若松市内へと向かった。
若松に着いて鶴ヶ城の近くにある食堂で会津名物ソースかつ丼を食べて帰路についた。

会津若松から国道115号で土湯峠を抜けて帰ろうと思ったが、一緒に出かけた友人の体調が崩れたので、高速道路に乗ってしまった。
会津若松ICから磐越道に入り、郡山JCTから東北道、部屋の近くの福島松川スマートICで下りた。
やはり高速道路は早く、一般道なら1時間半くらいかかる距離を、半分の45分ほどで来てしまった。
何とか雨が降らず天気のもった会津であったが、中通りの福島の方は1日中雨だったらしく、出発前の天気予報では晴れの予想だっただけにがっかりだった。

四季を通じて様々な顔を見せてくれる山間部は、とても魅力的である。
まもなく、冷たく美しい銀世界がやってくる。

2012年11月13日火曜日

【PC投稿】うつな日々


いよいよ11月の寒さとなった福島です。
もうすぐ白い冬がやってきます。

さて、昨日は公認会計士試験の合格発表日でした。
僕はまだ受験したことはないのですが、毎年この日がやってくる度に新たな誓いを立てたものでした。
大学に入学した当時は、3年次での合格を目指していたわけですからその期限は昨日でした。
それが今や計画よりも2年遅れです。
遠回りをしている間に、アルバイトをやり、震災を経験し、海外へ出かけ、新しいサークルにも入り、遊びに遊んだ3年間でした。

何かきっかけがあるごとに勉強しようとは思っても、結局数日で破たんしてきました。
それだけ切羽が詰まっていないということなのでしょうか、それともそもそも興味がなかったのでしょうか。
興味のあることには詳しいと自負している僕ですが、そうでないものは全然手がつかないのです。
大学受験の時もそうでした。
これは逃げなのでしょうか。
やりたくなくてもやらなきゃいけないことだってあるわけですし、やりたいことでもやれない時期だってあるものだと思います。
僕は何か勘違いしているのでしょうか。
このまま何も結果を出せずに、何にもなれずに老いてゆくのでしょうか。

1年生の頃に戻れるのであれば戻りたいと思う今日この頃です。
でももし戻れたらとしても、きっと同じ選択を重ねてきたことだと思います。
では、5年後、10年後、もっと先の僕がどんな人生を歩んでいるのか。
このままでは後悔してしまう気がしてならないのです。
様々な誘惑に負けない力が欲しい。
何も成し遂げられずに終わってしまうのでしょうか。
国家試験に向けた勉強。
あの難しい課題は、どうすればクリアできるのでしょう。

2012年11月5日月曜日

【PC投稿】福島に生きる

日曜日、友達と福島市内の居酒屋で飲んできました。
彼は大学の内外問わず被災地福島を全国に向けて発信しており、最近ではテレビへの露出も増えてきた学生です。

19時に福島駅東口改札で合流し、繁華街をぶらぶら。
1軒目に入った居酒屋はテレビの音量が大きくあまり落ち着かなかったので、生ビール1杯と焼き鳥3本を食べて2軒目へはしご。
今度は隠れ家のような居酒屋に入り、こちらでは久保田と八海山を2合ずつ飲んで話がはずみました。

その中で、「結婚して生まれてくる子どもが、もし奇形児だったらどうする」という話になり、もしそうなったら自分を恨む、ということでした。
公式では安全だと言われている福島でありますが、最近になって「18歳以下の1人が甲状腺がんと報告」や「抗がん剤研究所を2年前倒しして急いで設置する」などといった報道が出てきて不審に思っております。
議論では、福島が危険か安全かはまだ分からないが、少なくとも他の地域に比べてリスクがあるのは事実で、そのリスクを冒してまで福島で大学生をやるには相応の覚悟が求められるのだ、という結論に達しました。

他ではできない経験をできるということは、差別化できる大きな付加価値であると同時に、危険が伴っているということです。
そのような環境下で、他の地域の大学生と同じようにただ授業に出て、ただサークル活動をやって、ただアルバイトをする、というのでは、リスクが大きすぎます。
私はあと1年4ヵ月で大学を卒業するわけですが、その後も福島で生活するのか、それとも他の地域へ行くのか、真剣に考えなければなりません。
もし福島で生きるとするのであれば、しょせんよそ者の私がこの過酷な環境に耐えられるのか、また逆に福島から出るのであれば震災後3年間暮らした福島という特殊な場所について自分の人生に今後どう生かしていくのか、正面から向き合っていかなければならないのだな、ということを再認識させられた飲み会でした。

これまで公認会計士になることを信じて学生生活を送ってきましたが、「就職活動をしようと思います」の一言から約1ヵ月前に指導教授から大学院を薦められました。
大学院進学など視野に全く入っておりませんでしたが、これを機にまた違った方面への進路も考えるようになり、もう一度自分の足元を見るきっかけとなりました。
もし大学院へ進学するとすれば、これまで3年弱続けてきた会計の勉強からは離れて、震災復興と社会コミュニティの構築という方面で研究を行うつもりです。
これまでは、どの職業であれば食えるか、ということを第一に進路を選択してきました。
しかし、最近は逆で自分の興味あることは何で、自分は何を仕事にしたいのか、ということに主眼を置くようになりました。
食える職に就くのではなく、好きな職を食えるようにする、と考えています。
そうなると“就社”活動をする多くの周り一般の学生とは道が分かれてきます。
やりたいことが絞れているので、情報の洪水に溺れてエントリーシートの波に飲まれることなく、自ら主導して“時期”を越えて行く予定です。
それは周りからは奇異な目で見られ、特にバブル期より以前に就職活動を経験した方々からは注文が多くつきます。

これからも焦らず、福島に生きているということに覚悟を持って自分のペースで進んでいこうと思う日曜日でした。

2012年11月4日日曜日

【PC投稿】相馬へ

(11月3日、朝の福島市街)

2012年11月3日(祝)
朝から快晴の福島から、今日は大学の友達の紹介のそのまた紹介で知り合った相馬市のNPO法人を訪問した。
予定では福島駅東口を6時30分に発車する特急バスで相馬へ向かうつもりだったが、前日の夜に担当者から電話が入り急きょレンタカーで行くことになった。

6時10分に起床して、金谷川の自宅を6時50分に出発。
約10kmの道のりを気温7℃の中、自転車をこいで福島駅へ。
7時30分に福島駅に到着し、東京から始発の東北新幹線で来るお客様を出迎えるために待機。
そこでちょうど地震が発生。
お客様を案内する係員からメールが入り、列車が福島駅を目前にして緊急停車したとのこと。
新幹線はまもなく運転を再開し、7時50分頃に合流。

レンタカーを借りに手配した会社へ行ったが、手違いで30分ほどロス。
トヨタのセダンを借りて国道115号線を相馬へと向かう。

(相馬市にある応急仮設で営業する店舗)

(飲食店内で催されたゴスペルコンサート)

9時50分に相馬市の仮設の飲食店舗へ到着。
ちょっとしたゴスペルのコンサートがあり、昼食を取ってからNPOの事務局で打ち合わせ。
12時30分過ぎに出発し、一カ所目の応急仮設住宅団地へ。
ここでゴスペルコンサート第二弾が行われ、つづいて芋煮会が催された。
我々は芋煮会を横目に二カ所目の団地へ。

(仮設団地の案内)

(閑散とする午後の住宅街)

 二カ所目の団地に入り、一軒一軒ヒアリング調査を開始。
このNPOでは全戸への聞き取りを行っているというのである。

いくつかの世帯はすでに引っ越しており、留守の世帯も多かった。
しかしご在宅されている方々はとても丁寧に応じて下さり、お宅にお邪魔して珈琲までごちそうになったりもした。
また、実際に津波に呑まれて安っぽく言えば「奇跡の生還」を果たした奥様からも話を聞くことが出来た。その体験はテレビなどでは伝わらない迫力と臨場感で、お話を聞けたことに感謝する。
各々のお宅は狭く、これまでの生活が一瞬で失われてしまう怖さを感じた。
まだ傷が癒えていないことを実感した。

一軒ずつゆっくりと話を聞き、17時に事務局へ戻る。
1時間ほどNPOの理事とソフトウエア会社の社長と交流し、18時30分に相馬を出発。真っ暗になった元来た道を戻り、20時に無事レンタカーを返却してイタリアンレストランでお客様と夕食。
新幹線へお見送りし、自転車で帰宅した。