2013年12月31日火曜日

1年をふりかえる

日付が変わって、2013年12月31日(月)。
大みそかだ。

30日は雨が降ったりやんだりしていた。
お昼頃まで寝ていて、先週にパンク修理をした自転車の確認をして、後輪ブレーキを取り換えた。
昨年の11月中旬、寒くなった夜に市内から大学まで自転車をこいでいたら、国道4号線の交差点でブレーキが破損して、それ以来放置してあった。
しばらく乗っていない間に後輪がパンクしてしまい、それを直してブレーキの交換も前輪、後輪と済ませ、新車同様の性能に回復した。
この自転車は、大学に入った直後の6月に市内の自転車屋さんで6千円で譲ってもらった中古のブリヂストンだ。
新車で買っても3万円くらいだろうが、福島の山々を通学している間に愛着が生まれ、一度タイヤ交換で4千円を払ったらやけになってしまって壊れるたびに直している。
このまま東京まで連れて行きたいな、と今は思っている。
あとはカゴを取り換えれば完璧だ。

夕食は部屋でカレーを食べた。
納豆と味噌汁も食べて、落ちつく。
夜10時過ぎ、散歩がてら金谷川駅前のコンビニへ行って夜食を買う。
金麦と澄みきり、チョコバナナクレープを買って、部屋に戻る。
iPodのスイッチを入れて、鬼束ちひろを聴きながら缶ビールの栓を抜く。

この1年間を振り返る。
振り返れば、進路選択に時間を多く割いた1年間だったと思う。
これまでの学校生活中心の生活からは離れた、自分の中では前例のない1年間になったと思う。
12月26日に私の就職活動は始まった。
この日、新幹線に乗って日帰りで東京・田町へ。

1月、学内で開催された説明会を中心に少しずつ就職活動を始めた学生なのだと意識し始める。
1月29日には尊敬する山川先生の最終講義があって、教授が最後に涙してしまったのを見て、福島大学から優秀な教授から1人いなくなってしまう、と感じた。

1月~2月にかけては週1~2のペースで福島と東京を往復し、新幹線やらニラクバスやらを使い込んだ。
今年は前厄にあたるので、2月3日に福島稲荷神社で5千円を納めて厄払い。
就職活動をしながらも、携帯電話は海外でもつながるし、世界中どこでもwifiが使えるから、と2月11日から20日までマレーシア・ベトナム・カンボジアを回る。
日本が一番寒い時期に南国の暖かいところで過ごすことの贅沢さを知る。
旅先では目立ったトラブルもなく、20日の深夜に羽田に到着し、そのまま東京駅から高速バスで福島へ。
1日置いて22日に大阪からの友人を出迎え、25日までの夜を共に過ごす。
この間も東京や仙台を往復し、アルバイトにも出かけ、落ち着かなかった。
22日には、田町の会社のグループディスカッションに参加。
28日、研究室に呼ばれて行くと、指導教授から「新潟に異動になった」と告げられた。
前年の秋には中国でフィールドワークを行い、1月にはゼミ生共同で論文を提出し、いよいよこれからだと思っていただけに、ショックだった。

3月に入り、アルバイトの夜勤が始まる。
勉強して、東京行って、勉強して、アルバイトして、東京行って、アルバイトして、勉強して、の繰り返しで、将来への不安も重なって恋人との関係が悪くなる。
3月6日、初めての面接。
田町の会社だった。
この時に「最初に内々定を出してくれた会社に就職しよう」と決意した。
3月11日はJASPのイベントに出かけたが、乗る予定だった電車が強風で運休になって遅れてしまい、14時46分は電車の中で黙とうした。
いくつかの会社で面接が始まりだしたが、全部落ちたらやばいので、今までの業種から広げて説明会に参加を始める。
19日は一番早く進んでいる田町の会社の座談会があったので、いつもは新幹線だったがこの日は高速バスで往復した。
21日には私を拾ってくれた研究室へあいさつへ伺い、23日には福島市内のホルモン市場で送別会を開いた。
卒業式は25日にあった。
2年前に失礼なことをしてしまった先輩に久しぶりにお会いすることができて、ふつうに話してもらえて嬉しかった。
社会への出帆を目前に控えた先輩の目は、キラキラしていた。
27日はふくかんねっとのイベントのお手伝いをして、28日は以前からお世話になっている韓国文化の先生が庭坂でレストランを開いたと聞いたので昼食をいただきに出かけた。
そして30日、夜勤明け新幹線でぐっすりと眠って午後一番で田町の会社の最終面接。
すべてを出し切って夕方の新幹線で福島に戻り、翌日はまた夜勤に就いた。

4月1日。
夕方に田町の会社から内々定の電話がかかってきた。
翌日、新しく所属した研究室へお邪魔して内々定を報告。
そのまま京都の桜を見たくなったので、夜行バスで福島から京都へ。
3日の朝に京都に到着して奈良の吉野へ行って千本桜を見て、夜は梅田で大阪の友人に食事をごちそうになり、4日は京都を散策。
夜の円山公園の桜がきれいで、来年もまた見れるのかな、なんて思いながら京都駅で高速バスに乗ろうとして、危うく福岡行きに乗りかけるところだった。
内々定が出てからは、落ち着いた日々が遅れた。

5月の大型連休は福島でゆっくりと過ごし、連休が明けると青森へ出かけたり東京へ出かけたり夜勤が続いたりと少しバタバタした。
11日の朝、金谷川で降りれずに松川まで寝過した。
14日にはゼミの花見があって、そのあと夜は新幹線の中で知り合ったおじさんに食事をごちそうして頂いた。
23日は利き酒会なるものが大学であり、26日は夜勤明けであったが生協関連のイベントで仙台へ出かけた。
つづいて27日は異動になった元指導教授のところへごあいさつに、車で新潟へ。
夕方には福島に戻って、翌日はゼミのあとに会津料理「楽」で飲み会。
31日は1年生の時にお世話になった英語の先生とたまたま生協で会い、そのまま一緒に昼食をとった。

6月1日、2日と東北六魂祭があり、福島市内はものすごい人出だった。
私は両日ともに夜勤で、疲れていたので少しだけ祭りを見てすぐに帰って寝た。
やはり祭りは当地でやるから意味があるのであって、こういったエンターテイメント化されたものはありがたみが欠けると思った。
11日、ニラクバスの運行がまもなく終わるというので、特に意味もなく東京へ向かった。
その時にほぼ貸切であったにも関わらず大学の友達と一緒になったので、福島から東京までずっとしゃべっていた。
そして東京駅に着いてからお寿司を食べて1杯飲んで、ラーメンを食べたのは、思い出となった。
18日には朝日新聞の記者がゼミで職業紹介をやってくださり、夜は親睦会があったがゲストは途中で抜けてお仕事へ。
20日はパセナカミッセのソラナカで夕食を取り、夜の信夫山に上がって烏ヶ先展望台からの夜景の美しさを知る。
22日に前から気になっていたKOKUYOのオフィスチェアをインターネットで安く見つけたので衝動買い。
27日は選挙の宣伝カーを運転した。

7月に入り、蝉が鳴きはじめた。
2日は仙台白百合女子大へ行き、ケニアで黒人に囲まれるよりも女子大で冷たい女子学生に囲まれる方が怖いなぁって思った。
15日、大学受験の時にお世話になった予備校の先生が副業の一環で毎年開いているバースデーコンサートをやるというので、昼の新幹線で東京へ行き、昼食をごちそうになって夜は荻窪のライブハウスでコンサートを聴いた。
そのまま新宿0時15分発の福島経由山形行きの高速バスに乗ったが、なんと新宿駅を出で1分も経たないうちに接触事故を起こして2時間立ち往生。
ちょうど関越道の死亡事故を受けて高速バス改革をやっていたときで、こんなところで死にたくないからキャンセルして翌日の新幹線で帰ろうかとも思ったが、運転手に話を聞いたら正気だったので安心して乗って帰った。
バスは2時間遅れの2時20分に新宿駅に出発したが、福島駅には定刻より20分遅れの6時10分に到着だった。
普段は2回の休憩があるが、この時は1回しか取られなかった。
17日は不思議なご縁を通して、いわき市の税理士さんにお会いした。
このような素晴らしい方も世の中にはいらっしゃるのだなぁって思った。
20日は郡山へ出かけてBigIのプラネタリウムで放映していた宇宙兄弟を見て、スペイン料理を食べてカラオケして帰った。
21日はいよいよ参議院選挙があり、たぶんこの日を境に日本は今までとは違う一歩を歩み始めたと思う。
22日はベトナム飲みがあり、久しぶりにベトナム人の部屋を訪問。
23日は、ぱいなっぷる家でビアガーデンからの庄や飲み。
29日から8月1日にかけて帰省した。

8月、最後の夏を福島で。
3日は1人でわらじ祭りへ出かけるも、途中で友達と合流して、一心亭でラーメンを食べて帰宅。
7日は会社の内々定者懇親会ということで日帰り東京へ。
10日、郡山うすい百貨店のジュンク堂でぶらぶら本を探して、風立ちぬを見て、四川料理を食べた。
16日にはアルバイト先でおでんを売り始めていて、もう秋なんだな、と思った。
19日は高校のときの日本語を研究している友達から電話で会議をやった。
22日、甲子園の決勝「前橋育英VS延岡学園」があって、延岡学園が初出場初優勝を飾った。
今年の甲子園は結構見たと思う。
そして24日、須賀川の花火大会へ出かけた。
26日から1泊2日でサークル合宿で蔵王温泉へ行った。
つづく28日から1泊2日は横浜で同期になる人たちと自主的な交流会。
横浜から福島に戻って夕方、森合の県立美術館で若冲展に行った。

9月。
1日に女子ラクロス部が大学が試合会場になったというので少し手伝う。
比較的9月は落ち着いており、9日から1泊2日で軽井沢へゼミ合宿に行き、あとは勉強していた。

10月1日。
いよいよ内定式があるということで、東京へ。
簡単な自己紹介プレゼンテーションをして、親睦会。
会長とか社長とか役員とかいっぱいいて、わくわくした。
2日は活躍する大学の先輩に会いに日帰りで長野へ。
大宮から始発の新幹線で長野へ行き、最終で戻ってきた。
7日、イギリス留学から帰国した友人を含めて学食でランチ。
8日はゼミの新歓を「宴」で。
15日から2泊3日で青森へ出かけたが、見事に16日に台風が直撃してとてもヘビーな旅行になったが、最終日は台風一過の快晴となり気持ちよかった。
23日、JASP飲みということでのこのこと「ワイン酒場」に出かけたら、誕生日を祝ってくれた。
こういうの初めてだったから本当に嬉しかったし、高いお酒までもらっちゃって恐縮。
そして中学からずっと付き合いのある友達からもプレゼントが届き、最高の誕生日となった。
26日は親が裏磐梯へ紅葉を見に来るというので、郡山で昼食。
そして30日、市長選出馬を辞退するという市議の記者会見の現場に立ち会った。

紅葉も深まり、雪が舞い始める11月。
1日に松島の親戚宅へ行くことになったのだが、行きの電車の中で東福島から偶然にも友人が乗ってきて、仙台までの1時間を楽しく過ごした。
そして3日、4日と1泊2日で弘前へ温泉旅行。
6日は大学生協テーマのある旅の有名な方がマレーシアからお越しになって、大学で講演。
何もしないことが一番よくない、ということを学んだ交流会だった。
そして新たなつながりができたことに感謝。
14日は桑折の復興住宅建設予定地、相馬の完成した復興住宅、大玉の村営復興住宅建設予定地を視察して、二本松の岳温泉に入って帰ってきた。
そのあと研究室へ寄って、友達に夜食に南福島の吉野家へ連れて行ってもらった。
21日から4泊5日で、長崎、福岡、広島を回った。
メインは23日、24日の広島大学で行われた合同ゼミ。
11月は福島駅西口改札前のAbboccareのクレープにはまりながら、過ぎていった。

そしていよいよ12月。
毎日毎日、優雅な生活を送っている。
13日、中学・高校を訪問して、就職先が決まったことを恩師方々に報告。
16日は京都で会社の内定者連絡会があったので、前日入りして阪神淡路大震災の復興後を視察。
1日中、大阪の彼氏に案内して頂いて、昼食、夕食とごちそうになる。
夜はホテルの30階から夜景を眺めながら、これから先の100年の話をした。
福島に戻って落ち着いた22日、アルバイトの夕勤が終わって部屋に帰ったら友達がケーキをごちそうしてくれた。
24日のクリスマスイブは、うれしいことに夜勤に入って、カップルでお越しになるお客様を帝国ホテルの水準をめざしたおもてなしでお出迎えしました。
26日から1泊2日で、仙台から来た友人と飯坂温泉へ行き、のんびりゆったり。
年賀状も出し終わって、いよいよ2013年も終わる。

29日は今年1年の感謝を伝えに福島稲荷神社へ出かけ、おみくじを引いたら大吉が出た。
来年も健康で病気や事故のない幸せな1年が送れたら良いな、と思う。
今年も1年間ありがとうございました。
来年も、よろしくお願いします。

それでは皆さん、良いお年を。

2013年12月24日火曜日

クリスマスの約束

(2010/12/23 JR釜石駅にて)


日付けが変わって12月24日、クリスマスイブになりました。
今年は雪が多いのか、11月から雪がちらつきはじめ、12月上旬から何度か積もっています。
大学のある山の上は、3日前に降った雪がまだ解けきらずに残っています。
でも今年は風が弱く、強風で電車が止まることはありません。
毎年11月下旬から12月中旬にかけて、特に12月上旬は北風が強く、日記を読み返してもストレスになっていたのが読み取れます。
しかし今年は風の代わりに雪が降っているみたいです。
雪は白くてきれいで、つめたくて、私は好きです。

イブイブの23日は、夕方まで部屋でぐだぐだしていました。
日が暮れて活動をはじめ、電車に乗って南福島のゼビオへ行きました。
暖かい服がほしいなぁ、靴もほしいなぁ、なんて思って行ったら、ついついあれもこれもと衝動買いしてお会計1万4千円也。
今年は一緒に過ごしてくれる女の子もいないし、自分にクリスマスプレゼントだと思って、値札も見ないで欲しいものを買い物かごに突っ込んで行きました。
そして夕飯は近くの大阪王将で天津飯ラーメンセット。
南福島の大阪王将とか、4年も住んでいて初めて行きました。
東日本にはお店ないけれども、551蓬莱の方がおいしいなぁって思いました。
ゼビオで家族連れとかカップルとか夫婦とか、いろんな人たちが買い物に来ていたわけですが、微笑ましいなぁと思いつつ、一緒にジョギングとかしてくれるパートナーと出会えたらいいなぁ、なんて想像していました。

卒業論文、なんとか結論までたどり着いたので、指導教授に提出しました。
ただいまコメントを待機しています。
2011年3月11日に東日本大震災を福島で経験して、本格的に震災復興に向き合い始めたのが、12月。
きっかけはJASPでしたね。
JASPは、福島大学の意識高い学生のほとんどが何らかの形で関わったのではないでしょうか。
その後は、前の指導教授について震災が福島の経済に与えた影響などを調べていって、2012年9月には中国四川省で四川大地震の復興に関するフィールドワーク。
今年の3月で前の指導教授は新潟大学へ異動となり、路頭に迷いかけた私を救ってくださったのが今の指導教授です。
2011年12月からずっとずっと震災復興のことを考えていて、2年がかりで書き上げた卒業論文が「東日本大震災における広域支援メカニズムの考察2008年中国四川大地震におけるペアリング支援の検証をもとに―(仮)」。
今の指導教授はご専門がヨーロッパ経済であるにも関わらず、中国を題材としている扱いにくいこの私をよく指導して下さっていると感謝しています。

先日、春から渡米する友達と福島駅近くのサイゼリヤへ行きました。
「福島駅から東北本線に乗って、山の上の金谷川駅へ向かう途中の夜景がきれいだよねー」っていう話もほどほどに、なんで今の進路を選んだのか、という話になりました。
私は幼いころから電車に乗って出かけるのが好きでした。
小学生くらいまで電車の運転士になりたい、と思っていましたが、それもどこへやら、いつにまにか夢は総理大臣に変わっていました。
テレビのニュースで、社会が抱える課題に興味がって、私が政治家になれば一変に変えられるはずだ、と思ったからです。
しかし慶應義塾大学の政治学科へ進学できるわけでもなく、親から離れたところで仕送りをもらってのんびりスローライフを送ります。
初めての一人暮らしで、念願の東北暮らしで、私は授業の合間を見つけては東北中を駆け巡りました。
いちご狩り、さくらんぼ狩り、桃狩り、ぶどう狩り、東北から離れた広島ではみかん狩りまで体験しました。
そんな中で特に惚れた街は、青森県の弘前でした。
4年間で弘前は春夏秋冬、全部行きました。
最初に文字通りの東北一周をしたのは、大学1年のクリスマスでした。
前日はらくだのたまごでサークルの忘年会があって、前にやさしい先輩が座って、思い出の飲み会になりました。
そこから翌日の始発電車で仙台まで出て、そこから気仙沼、大船渡を通って盛駅から三陸鉄道に乗車。
盛駅でシチューを配っていて、そこに遭遇した私が岩手日報の記者に取材されて翌日の新聞に載って、車窓から見える家の立派なことを聞けば気仙大工の話を教えてもらい、三陸鉄道に乗ったら産直列車という地元で観光振興をやっている奥さんと仲良くなって、釜石駅のひとつ手前の平田駅で降りて鉄の資料館に寄って、そのあと国道45号線沿いに釜石市内まで歩きました。
海岸沿いには「津波、逃げろ」と看板があったりして、三陸が何度も津波に呑まれてきた歴史を感じて、釜石からJR山田線で宮古へ出て、宮古に泊まって翌日は浄土ヶ浜とか行って、三陸鉄道とJR、青い森鉄道を乗り継いで三沢に立ち寄って、2日目のクリスマスイブは青森市の雲谷高原に宿泊。
3日目に青森の友人と会って、4日目に秋田、5日目に山形と抜けて福島に戻りました。
もし、震災がなければクリスマスの東北一周旅行をここまで深く記憶することはなかったと思います。
昨年のクリスマス、ほぼこの逆ルートで東北一周をしました。

2011年3月11日以後、くりかえしくりかえしテレビで見せつけられた津波の脅威。
2年が経ってがれきの撤去が済み、スーパーゼネコンは強く関与せずに地元主体で動き始めた復興。
卒業論文には、4年間、目に焼き付けた東北を思い出しながら、阪神・淡路大震災、新潟県中越地震、中国四川大地震、東日本大震災の論文と当たりながら書いていきました。
もっと専門的に勉強して、この道を究めることも一度は考えましたが、それはやめました。
次に大規模な災害が起きるようなことがあれば、行政面ではなく、民間企業・1市民から復旧・復興に関わっていきたいと思っています。
さて、話は電車の運転士に戻りますが、ある時、私は電車を運転したいのではなく、電車に乗って出かけたいのだ、ということに気がつきました。
建前では偉そうなことを言っていますが、出張が多い、というのも今度の会社を選んだ1つの理由でもあります。
野村のビジネスマンはシンガポール出張でも日帰りだとネタにしています。
さすがにそこまでやると人間離れしていますが、全国に支店を持っている会社よりも、首都圏と京阪神にしか拠点を持っておらず、そこから日本中へ電車に乗って出張するほうが私のとっては理想的なのです。
三つ子の魂百まで、と言ったところでしょうか。

小田和正とTBSが毎年放送している「クリスマスの約束」。
13回目の今年は、12月25日(水)23時19分から2時間にわたって放送されます。
クリスマスにしても、お正月にしても、毎朝のジョギングにしても、誰かと一緒であることが、一番の幸せなのかもしれません。
メリークリスマス。

2013年12月19日木曜日

新幹線の中で考えること

東京駅を1740分に発車した仙台行きの新幹線に乗っている。
すっかり夜となり、車窓には都心のビル群が輝いて映る。
iPodで音楽を聴きながら福島までの旅路をくつろぐ。
今日は8号車の19E席で、デッキと車内を仕切るドアが目の前にある。
いつもであれば私はJRのネットで格安きっぷを予約して、真ん中あたりから車内の後方を選ぶのだが、今回はみどりの窓口できっぷを購入した。
行き先は、京都だった。

京都には会社の支社があり、昨日は関西地区で採用された学生と関東地区で採用された学生が一堂に会した。
会社では社長のあいさつと昼食会、簡単な研修があり、夜は近くの居酒屋で親睦会が行われた。
メインは、おそらく勤務地の発表だったと思う。
一般的な企業では入社後の研修を経て勤務地が決まるが、私の内定した会社はまだまだ新興企業で採用人数も少ないので、入社式前の昨日に発表されたのだ。
私は、東京本社の勤務に決まった。
自分のまだ知らない土地へ行きたいという気持ちもあったので、少し残念ではあるが、しなくて良い苦労ははぶかれるべきかもしれないと思った。
これで、とりあえずは一段落したことになる。

幼いころから東北地方に住みたいと願い、その夢を大学進学にあたるところで実現した。
東北はあこがれの地で、この4年間は桃源郷にいるかのごとく毎日毎日幸せだった。
でもその一方で、クリエイティブさに欠けていて、少し物足りない感じはあった。
変革を好まず、保守的な考えを持った人の多い世界なのだ。
賃金の面でも疑問はあった。
そして縁あって比較的すぐに東京の会社に決まった。
文句なしの結果だと思っているし、今は十分に満足している。
方向性も定まったことで、今後の見通しも立ってきた。
それなのに、なぜか悶々としている。
それは恋愛も含まれているし、自分自身の持っている大志に関することでもある。

最後の1カ月はまったく顔も合わしてくれなかった彼女にふられたのが10月。
ショックは大きくて、それからしばらくはふらふらしていたが、勉強にも集中できた。
11月上旬にたまたま立ち寄った神社で引いたおみくじに救われて立ち直り始めたけど、中旬に価値観の変わる出会いがあった。
これまでは疑問に思ったことをとことん突き詰めようとしていたけれど、それは他人に聞いていいものと、本から学習しなければならないことがあるのだと教わった。
今でもまだそれを消化しきれていなくて、ときどき考え込んでしまうことがあるけれども、それが大人への第一歩なのかもしれないと思って、前向きに生きている。
不特定多数に向けて発信することは、ありとあらゆる自分では想像できない部分への影響をも想像して書き込まなければならない。
小学生の頃はテレビを見ながら、なんで大人たちはこんな簡単なこともできないのだろう、と思っていたけれども、いざ自分が成長して年齢なりの思考ができるようになってくると、いろいろな課題はなんて難しいことなのだろうと思ってしまう。
これらをひとつひとつ解決していたら時間は足りないし、その間に新しい課題も出現するし、一気に解決しようとしたらとんでもない影響がまったく予期していない個所で生じたりするし、社会は深く密につながっているということまで考えられるようになってきた。
結局、もとに戻ろうとする力が強く働いてしまう。
そういうものなのかもしれない。

街がざわざわした雰囲気の12月は、嫌いだ。
2月や6月のように、落ち着いていたい。
新幹線は、新白河駅を通過してみちのく路に入った。
あと20分で福島駅だ。

2013年12月9日月曜日

うぬぼれ未公認会計士

今朝は、5時半に起きて散歩がてら近くの神社へお参り。
昨夜から舞っていた雪は、積もることはなかった。
散歩の帰りがけに自動販売機でほっとレモンを買って、昨日のうちに準備しておいた菓子パンをほおばって朝ごはん。
今日はいよいよ「公認会計士」短答式試験の本番である。

6時半に部屋を出発して、金谷川駅を6時47分に発車する始発の下り電車に乗る。
福島駅で仙台行きの電車に乗り換え、8時半に仙台に到着。
試験会場には、10時10分までに行けばよいので、それまでアーケードのマクドナルドで時間調整。
2階へ上がると、日曜日の朝にしてはお客さんがかなり入っていたが、そのほとんどがテーブルに顔を伏せて寝ており、店内のBGMだけがガンガンに流れ、独特な雰囲気を醸し出していた。
今さらじたばたあがいても仕方ないと思いつつ、1時間ほど企業法のテキストを眺める。
電車の中でもときどき車窓を眺めながら読んでいたので、結構復習が進んでいた。
そして9時40分にマクドナルドを出て、セブンイレブンでペットボトルのお茶と100円おにぎり、ウイダーインゼリーを買って、会場であるハーネル仙台に到着。

試験会場に着くと、8割方の席はすでに埋まっていた。
私の席は、左端の前から2番目、しかも1番前は欠席という、コンディションは抜群だった。
10時10分に試験監督が13人も入ってきて、扉が閉まる。
問題用紙が配布され、10時30分に企業法の試験開始。

1科目目は1時間で終了し、もうお昼休み。
さっきセブンイレブンで買ったおにぎりを食べて、自動販売機でブラックコーヒーを買ってくる。
管理会計論のテキストを開くも、これは理論でどうのこうのなるレベルじゃないと思って10分でやめる。
つづいて監査論のテキストを開いて、こちらを1時間ほどにらめっこ。

12時40分、再び試験監督がぞろぞろと入ってきて、次の試験の準備が始まる。
2科目目の管理会計論と3科目目の監査論は一体となっており、13時から2時間の試験時間がとられた。
私は塾で言われていた通り、初めの30分で監査論を片づけた。
そして残りの90分をかけて管理会計論。
何とかぎりぎり全部の問題に手をつけた。

こうして3科目が終わって、いよいよ次はラスボスの財務会計論。
4科目目の財務会計論は、16時から18時までの2時間。
塾で答練を解いた時に解説授業で、4回は回すように、と言われたので、一目見て面倒くさそうな問題は飛ばして、なんとか4周した。
それでもまったく手につけられなかった問題が2問あった。

栄養ゼリー食べて、ブラックコーヒー飲んで、目薬さして、やれることは全部やった。
1日、頭フル回転。
4科目終わって、ふらふらだった。
それでも全部回っていなかった。

これが国家権力かと思った。
世界第3位の経済規模を誇る国の、ビジネスの第一人者たちの超エリートが寄り集まって作られた問題が、これか、と思った。
これが最高峰。
これが、頂点なんだ。
魅了された。
女の子以外で惚れるようなこと、6年ぶりだ。
この感覚、公認会計士になりたい、そう思った時のあの時の感覚と同じだ。

もう勉強をやめたくて何度も諦めかけて、ガリガリに痩せて、頭が禿げるくらいまでやったけど、それでも足りない。
納得した。
これが人生をかけてもやる価値のある問題なのだと。
本当にすべてを断ち切って、失える物はすべて失ってしまうくらい、それくらいの意気込みでやらないと受からない試験、これが頂点なんだと思った。

公認会計士という職業を知った時、「これだ!」と直感した。
私にはこれしかないと思った。
よく分からないけど、根拠は何もないけど、直感だった。
その直感からしばらくして勉強を始めて、やっとここまで来た。
今日、あと少しだ、と直感した。
勉強には4年間を費やし、思いはすでに6年目に入ったが、今まで具体的なイメージがつかなかった。
夢のまた夢だ、心のどこかでそう思っていた。
どこかで、できない、と思っていた。

でも今日、できる!と心の底から感じた。
ここが頂点。
これが解ければ、公認会計士になれる。
どんな公認会計士も、この道を通ってきた。
私も絶対にできる。

私はこれから就職する。
同志たちは、就職活動をせずに、それこそすべてを犠牲にして勉強してきた。
彼らは卒業後、不安定になる。
その覚悟をしてまで取り組んでいる。
それは本当にすごいと思う。
受験勉強とは、そういうものだと思う。
何かを得るためには、何かを犠牲にしなければならない。
まさに今日、それを実感した。
私はまだまだぬるい。
でも、卒業までまだ4カ月ある。
この期間に詰めれるところまで詰めていって、今度の5月の短答式で受かろう。
そうすれば今回受かるであろう同志たちとも、8月の論文式で同じ土俵に立てる。
4年間かけて、ここまで登ってきた。
大学の4年間、いやそれ以上をかけてもやる価値のあるものだと思った。
あと少し。
あともう少し。

もう卒業旅行の行き先は決まった。
ヨーロッパとかアジアとか、そんな近くない。
「世界」だ。

2014年11月14日(金)合格証を手にしよう。
私の卒業旅行は、そこから始まる。

オレ、マジかっこいい。笑

2013年11月30日土曜日

11月の更新

こんばんは。
みなさんいかがおすごしですか?
11月の更新は最初で最後、1回きりになりそうです。
このところ、ツイッターとかフェイスブックとか別のSNSに足が向かいがちで、なかなかブログの更新に手が回りません。
私がブログを始めたのは前のYahoo!の時から数えて7年近く前。
中学2年の時に茨城のサマーキャンプで知り合ったアメリカ人の友人に誘われて始めたフェイスブックは5年前。
あの頃は日本人はミクシーが主流で、周りでは一部の人しかやっていなかったけど、今となってはフェイスブックの方が優勢。
そのあと始めたツイッターは3年前。
ブログ、フェイスブック、ツイッターとネット上で人ととのつながりを意識するにはツールが多すぎる気がしてなりません。

話は変わるのですが、先週、はじめて九州へ行ってきました。
長崎、福岡、広島と3都市をめぐる周遊プランで、初日は福島から夜行バスで東京へ行き、リムジンバスに乗って羽田から始発の便で長崎へ。
レンタカーを借りて佐世保、諫早湾、島原半島と回って夜は長崎市内へ。
2日目は長崎から特急電車で博多へ移動して、大宰府へのお参りと九州国立博物館で開かれている徳川展へ。
夜は天神と中州を歩いてケバブと博多ラーメン食べた。
3日目は朝から山陽新幹線で広島へ移動して、大学の合同勉強会。
4日目は広島の尾道へ行って観光とみかん狩り。
夜は広島市内で2年ぶりに友人と再会。
5日目は広島から仙台まで飛行機に乗って、東北本線で福島まで帰ってきました。

やっぱり東日本が落ち着きます。
人々の顔の形も違うし、食文化も違うし、なにより言葉が違和感だらけです。
西日本の言葉には聞きなれていないのか、疲れてしまいます。
まるで外国に行っているようなときのあの感覚と同じです。
広島でちょっとしたトラブルもあり、ぐったりして福島に帰ってきました。
今回の旅費には合計で10万円くらいかかりました。
東南アジア2週間でも8万円で済んだことを思うと、国内旅行は割高の何物でもありません。
でも投資した分だけ得られた感じで、日本も意外と広いのだなぁっと実感する旅でした。
言葉が通じる分だけ吸収できる情報量が大きいのだと思います。

西日本の異文化コミュニケーションに疲れた私ですが、12月の中旬には京都へ行かなければなりません。
怖いよぉ関西地方。笑。

福島はとてもいいところで、幼いころから行き来していた東北は私の故郷のようなところではありますが、東京生まれ埼玉育ちの私はやっぱり関東の人間なんだなぁと今回の旅行で思いました。
どれほど現地を理解しようとがんばっても三つ子の魂百までというのでしょうか、どこかで馴染め切れていない部分があるのかもしれません。
フェイスブックで小学校の友達のページとか見ると妙に落ち着くのはこういうことなのでしょうか。
今まで地元のことを何とも思わず、東北に住みたいと願い続けてきましたが、4年間住んでみて決めた道は結局関東就職であり、戻ることになりました。

私は極めて狭い世界で生きている人間なんだなぁと思わされた今回の旅行でした。

2013年10月31日木曜日

秋の夜に抱くもやもや感

(東北道から眺める岩手山)

青森から福島に戻って2週間。
この2週間はよくわからないけど、忙しかった。
10月も月末になってようやく心に余裕が出てきた。
今夜は、グランドキリンという少し高いビールを飲んでいる。
とてもおいしい。

今夜は特に書くことはないが、とりあえず今の気持ちをつづってみる。
今月23日は私の誕生日ということで、思いもよらなかった学友たちから祝福してもらった。
恋人と別れたばかりで今年の誕生日は寂しい思いをするのかなぁっと思っていただけに、本当にうれしかった。
振り返れば昨年の誕生日の時には新しい恋人と付き合い始めたばかりだった。
車で裏磐梯へ出掛けて、五色沼へ行ったんだっけ、なんて考えながら、1年という時間は短いものだな、と思った。
苦しい時の1年はあれほどまでに長いのに、楽しいひと時は刹那のうちに過ぎ去ってしまう。
時計の針はいつも同じような動きをしているように見えるけど、時間の長さというのは本当はいろいろなのかな、って前から思っていた。
果たして来年の誕生日はどんな状況になっているのかな、と今から楽しみだ。
そして死ぬ前の最後の誕生日は、どのように迎えているのだろうか。
いつが最後の誕生日かだなんて、人生終わってみないとわからない。
すべてが終わった時に振り返ってみて、あのときが最後だったのか!と知るのだろうが、その時はもう遅い。
そう、何かが起きてしまってから後悔しても仕方ないのだ。

昨日30日は、福島市内にあるとある女性の家を尋ねた。
彼女とはNPOを通じて知り合い、前回の参院選の時には選挙の手伝いで駆りだされた仲である。
彼女は福島女子高から桜の聖母短大を出て、二十歳から福島県内の中学校で英語の教鞭をとっていたパワフルなおばあちゃんで、私が知り合った時にはすでに定年退職をしていた。
教員時代には日教組の幹部をも務めたというコテコテのリベラルで、世界平和を目指して政治から変えようとしている。
県議選に2度出馬するも落選し、その後は国政選挙に分身を送ろうとして失敗して、それでも「自分は間違ったことはやっていない」という強い信念を持っている人間だ。
そんな女性のお宅へ行って、お昼ご飯をごちそうになった。
ランチのあと、11月中旬に福島市長選が予定されており、その選挙絡みで県庁へ行くというので私もついて行った。
そこで県政記者クラブの部屋に入って、初めて記者会見というのを目の前で見学した。
記者会見を行った人物は現職の市議会議員で、今度の市長選に立候補した30歳の若い政治家で、別の候補と政策協定を結んで自分は降りるという内容だった。
その候補者が降りるまでに至る経緯はまさにドラマのごとく根回しのされた話のようで、これが民主主義なのかと考えさせられた。
中国人の権力者は家や車を壊したり法律を守らずに相手を陥れようとすることに長けているが、日本人の権力者は誰も気づかないように根回しに根回しを回して相手を陥れることに長けているのだということを思った。
表に出てくるのはほんの一部分で、大事な真実は闇の中。
そして感心したことに、質問する記者の中には頭のいい人が結構いて、おそらく根回しにやられたということの確認を取るかのような質問も飛んだ。
おそらくプロの記者たちはもうわかっているのだろう。
日常茶飯事なのだろう。
しかしそのことが報道されることはおそらくないだろう。
報道会社によってオブラートに包んで流すところもあれば、まったく着色を加えて流すところもあるだろう。
いずれにしても真実はいつもひとつなのだ。

これまで政治は世界を変えられるのか、とずっと疑問を抱いていたが、今日、ひとつの中間的な結論が出たかもしれない。
政治は世界を変えることもできるし、できないかもしれない。
それは政治の世界で生きようとする本人次第なのであるということ。
自分が政治で世界を変えようと思えば変えることはできるし、その可能性に少しでも疑問符をつけてしまったら大きな圧力に屈してしまうということ。
そして最後は1人で戦わないといけないということ。
人間は弱いから周りの支えを必要としている。
自分に同調してくれる人が多ければ多いほど自分に自信は持てるし、逆に反対を唱える人や協力してくれない人が多ければ自信をなくしてしまう。
今日とても勉強になったのは、立候補者が30歳という若さの点だ。
私は経験がモノを言うという思考を持っているので、若い人では無理だ、とずっと思ってきた。
実際に30歳の立候補者と少ししゃべってみて、本当に若いし、頼りになるのか疑問符だらけだった。
でも挑戦できるのは若いからで、年を重ねれば重ねるほど丸くなっていくのかな、と思わされた日だった。

日曜日の深夜に私がよく見るNHK教育「スーパープレゼンテーション」という番組がある。
先週は、バージニア大学で心理学を教えるMeg Jayという人の「"30代は20代みたいなもの"じゃありません」というプレゼンだった。
スーパープレゼンテーションに関することは公式サイトで見ることができるので、そちらに譲るとして、今日アメリカで「20代はモラトリアム」と言われているけれども、実はそうじゃなくて、20代は大人の人生を歩む上でとても重要な時期で、この時期に何を学んだかで生涯賃金も変わるしこれから自分が作る家庭も変わるというものであった。
恋人に振られたばかりの私にはキツイ内容だった(笑)が、もっと将来を具体的にイメージしないといけないな、と思った。

先日、些細な人間関係のトラブルを起こして研究室の出入りを一時的に禁じられた学生がいる。
彼は後輩思いでとてもやさしい学生なのだが、大勢の中に入ると少し変わってしまう。
個人的にさしで飲めば分かりあえるのに、人数が増えると収拾がつかなくなってしまう。
どうしてなんだろうか。
これは彼個人に限らず、国家や宗教の対立についてもあてはまるのではないかな、って思っている。
アメリカ人とイラク人だって、フランス人とアルジェリア人だって、日本人と中国人だって、1対1で話し合えば分かりあえる。
時間がかかる場合もあるかもしれないけど、「話せば分かる」。
しかし、一方が何らかの文句をつけて話を聞かなかったり、歪んだ解釈をすれば、そこで対立は深くなってしまう。

話せば分かる。
悪く言えば、声の大きい人が有利に持っていく。
お人好しなだけじゃダメなんだ。
よく企業は「人財」なんて当て字を使っているけど、あれは間違いだ。
正しくは「人材」。
人が財産なのは当然で、それをわざわざ文字で表わさないとならないくらい社会が歪んでいることに残念でならない。
それにしても個人的には、人間が好きだ。
嬉しいことは嬉しい、むかつくことには怒って、良い知らせには喜ぶ。
男は男らしく、女は女らしく、ペットはペットらしく、人間は人間らしくふるまう。
それが最近では肉食女子だとか、草食男子と言われている。
「○○力」という表現が支持されるのは、そういう「~らしく」振る舞える人が少ないからではないだろうか、と思う。
外国人が京都を好むのは、京都に「日本らしい」建物がたくさんあるからなのと一緒だ。
しかし、現代の日本が抱える課題は京都にはなくて、いろいろなところに散在している。
そしてとくにその歪みが現れるのは、災害を受けた地方なのかと。
若い私は、いろいろなことに問題があると感じている。
どうか触覚が鈍る前に何かできるようになりたい、何とかしたい。
あれれ、数年前にケニアで知り合った2つ3つ年上の学生たちが私に語りかけていたことに似ているような…。
私も年を重ねているのだなぁ。
まぁいっか。
もっと素直に生きたいと思う秋の夜であった。

2013年10月17日木曜日

【国内旅行】台風に乗っていく青森の旅Vol.6~台風一過の帰路につく~

最終日の1017日は、8時に起床した。
昨日と同じようにホテルのレストランで朝食を済ませ、9時にチェックアウト。
さっきまで晴れていたはずなのに、突然雨が降ってきて困ったが、ホテルの人の心遣いで傘を手にした私は、青森駅前のバスのりばへ。
運行状況を確認して、準備万端。
まだ1時間ほど時間があったので、最後にもう一度、津軽海峡を眺めたくて、雨がやむのを首を長くして待っていた。

15分ほどで小降りになり、外に出てみた。
一昨日の夜に散歩した行程を進み、青森ベイブリッジをくぐった。
今から59年前、1954926日に函館で1,155人の死者・行方不明者を出した青函連絡船の悲劇に想像を膨らませた。
きっとあの時も、「10年に1度」と言われるような台風だったのかな、と思いながら。

【青森駅全景】
(2013年10月17日)


【青森ベイブリッジと八甲田丸】
(2013年10月17日)


【函館へ向かう青函連絡船】
(2013年10月17日)

時間になったので、私は青森駅のファミリーマートで行きの仙台とそうしたのと同じように、昼食のおにぎりとお茶を購入した。

仙台行きの高速バスは、1020分に青森駅前8番のりばに姿を見せた。
帰りは、宮城交通が運行する車両だ。
こうやって遠い地に身近な名前のバスがあると、迎えに来てもらったというか、今から帰るのだな、という気がして安心する。
乗客数は行きと同じで、20人ほど。
2人組や3人組が多く、車内は時々にぎやかだった。

【青森駅前の案内所】
(2013年10月17日)


【仙台行き高速バス】
(2013年10月17日)

雨もやみ、雲の切れ目から青空がのぞく中、定刻の1030分に青森を発車した。
1045分に青森中央ICから青森自動車道に入り、まもなく青森料金所から始まったばかりの東北自動車道に合流。
10分ほどの羽黒平は通過し、次の牡丹平には停車した。
ここで2人乗ってきた。

青森を発車して1時間20分。
トンネルを抜けるたびに雨と晴れの天気を繰り返す空の下を走りながら、最初の休憩は秋田の花輪SAで取られた。
10分の休憩で発車し、岩手に入ると台風一過の晴天が広がった。
岩手山の全景を眺めながら盛岡を通過すると、交通量が増え始めた。
2回目の休憩は、1345分から10分間、岩手の前沢SAで取られた。
宮城に入り、仙台平野が過ぎると仙台宮城ICを出た。

1515分。
定刻より15分早く仙台駅前42番に到着。
私の予定通りである。
行きの時と同じように反対側の車線に回って、40番のりばで福島行きを待つ。
まだ1520分発の秋田行きと気仙沼行きが止まっていた。
この2台が発車するとすぐに、酒田・本荘行きと福島行きが入ってきた。
福島行きの車両は、宮城交通の運行だった。
今日は青森から宮城交通にお世話になっている。
宮城交通は社員教育に力を注いでいるのか、運転が丁寧で追い越しもうまく、まさに「ベースカ―」にふさわしく快適であるので、青森から福島まで宮城交通バスで移動できるのは嬉しい。

1530分に仙台駅前を発車し、広瀬通り一番町で5人が乗り、乗客20人を乗せた高速バスは、一路福島をめざす。
村田JCTまでは酒田・本荘行きと並んで走り、国見峠を抜けて眺める夕日に照らされた福島盆地が美しかった。
福島飯坂ICを出ると、天王下、原田東、稲荷田、中央郵便局と停車して、1640分に福島駅東口に到着した。

福島駅の1番線ホームには、ちょうど1651分発の東北本線上り普通郡山行きが停車していたので、10分ほどの乗り換え時間でスムーズに乗り継ぐことができた。
偶然にも車内で二本松に住む友人に遭遇したので、今回の旅の話を聞いてもらいながら、金谷川まで列車に揺られた。

福島駅から10分で最寄りの金谷川駅に到着した。
ここから部屋までは、歩いて10分だ。
17時過ぎ、なんとか日が暮れる前に部屋のドアを開けることができた。
ただいま、福島。

今日の福島は朝から快晴だったのだろうか、台風一過にふさわしい気持ちの良い夕焼けが広がっていた。
今回は1カ月近く前から計画していた旅行だったにも関わらず、見事なまでに台風と遭遇してしまい、思い出になる旅だった。
トラブルは旅のスパイスとは言われるが、私の旅はいつもスパイスが効いてとても辛味仕様になっている。
今回、蔦沼を見ることができなかったこと、酸ケ湯温泉に入れなかったことはとても残念だったけど、それを見るにはまだ私には早いのかな、と思うことにして、また旅に出ようと思う。

【国内旅行】台風に乗っていく青森の旅Vlo.5~中野神社の夜紅葉~

その後、学生1人は17時からアルバイトがあるというので、別れた。
16時頃、雨がやんできた。
どうやら台風は北海道の東方沖へと抜けたらしく、西から青空が広がり始めた。

これから紅葉のライトアップを見に行こう、ということになり、山の中、車を飛ばした。
青森市内から1時間ほどでやってきたのは、弘前市の郊外にある黒石の中野神社。
紅葉はまだ始まったばかりであったが、不思議なライトに照らされた神社の境内が、まるで長崎の出島のように浮かんで見えた。

【雪でつぶれた車を放置】
(2013年10月16日)


【出島のような中野神社】
(2013年10月16日)


【ライトアップされた中野神社の境内】
(2013年10月16日)


【中野神社の境内を流れる不動滝】
(2013年10月16日)

それからまた1時間かけて国道7号線を走って青森市内へと戻り、夕食は佃にある「ラーメン・ワールド」という個人経営のレストランへ。
このレストランの隣には、もう絶滅したのかと思っていた「小僧寿しチェーン」が営業していた。
ラーメン・ワールドでは、味噌バターコーンラーメン820円を注文した。
器が大きく、バターたっぷり、野菜たっぷりのラーメンで、1杯で満腹になった。
味噌ラーメンと言っても、今流行りのこってりではなく、しょっぱくてでろっとした北国ならではの味であった。
地元の人がよく利用するレストランに連れて行ってもらえたことがうれしくて、満足した。
20時にはホテルまで送り届けてもらい、お別れとなり、こうして短い1日は終わった。

【「ラーメン・ワールド」の味噌バターコーンラーメン】
(2013年10月16日)

【国内旅行】台風に乗っていく青森の旅Vol.4~青森満喫~

青森2日目の1016日は、朝から首都圏で交通障害が発生していると繰り返し報道された。
青森は1日雨の予報だったので、当初予定していた蔦沼・酸ケ湯方面への観光は取りやめ、三内丸山遺跡・青森県立美術館・浅虫水族館を回ることになった。

630分に起床して、7時にホテルで朝食。
身支度を済ませて、830分に迎えが到着した。
今日は1日、青森の学生4人に青森を案内してもらうことになっていたのだ。

最高気温は10℃の予報で、冷たい雨が降りしきる中をまずは三内丸山遺跡へと向かった。
9時の開館と同時に入場し、遺跡ツアーに参加した。
長靴と大きめの傘を借り、おばさんガイドについて行った参加者は10人あまり。
我々のグループからは2人が離脱し、3人が参加。
よくもこんな天気の悪い日にツアーに参加する人がいるものだな、と思ったが、世の中に風変わりな人は意外と多いのかもしれない。
いや、青森まで流れついてくる人たちが風変わりなだけなのかもしれない。
優秀な人は東京へと出て行き、青森に残るのはそうでない人ばかり。
田舎は住むところではなく、遊びに来るところ、そんな話を聞いた覚えがあった。

遺跡ツアーではずぶ濡れになりながら、なんとか一周。
長靴を借りたから幾分ましではあったものの、それすらなかったら一体どうなっていたことでしょう。
きっと風邪を引いていたに違いありません。

【三内丸山遺跡】
(2013年10月16日)

途中から岩手県の小学生が団体でやってきたので、我々は早々に切り上げ、隣の青森県立美術館へ。
この美術館では、「あおもり犬」というモニュメントが有名であるが、学生たちからは「がっかりするよ」と聞かされて美術館に入った。
常設展のみの入場で美術館を回り、そのモニュメントが目の前に現れた時、「なるほど。」と思った。
確かにたいしたことはなかった。
一度訪れれば、もう良いだろう。

【青森県立美術館】
(2013年10月16日)


【あおもり犬】
(2013年10月16日)

お昼は、問屋町にある「たか久」というファミリーレストランへ行った。
青森市内に数店舗を展開しているというこのレストランは、看板にねぶたの絵が描かれており、安くて量が多いということで地元の人がよく利用するお店だそうだ。
中に入って靴を脱ぐのだが、その靴を入れる下駄箱の鍵が半分くらいなくなっており、半開きの状態が多くあった。
店員は、「鍵の付いている下駄箱をご利用ください」と言うが、このやる気のない感じが田舎らしくて良かった。
料理は定食屋のようで、私はかつ丼とかけそばのセット800円を注文した。
特別においしいというわけではなかったが、しょっぱさが青森の味を物語っていた。

食後は、浅虫水族館へ。
この水族館は、大正9年に東北大学の研究所として作られ、青森県営に移管してから今年で30周年だという。
イルカショーが人気で、平日の台風の中にも関わらず、ショーの席は半分以上も埋まっていた。
水族館の施設自体は30年の年期を感じ、案内表示やお土産ショップ、自動販売機などで昭和の香りが漂ってきた。

【浅虫水族館】
(2013年10月16日)


【イルカショー】
(2013年10月16日)

水族館のあとは、国道4号沿いにあるコンビニエンスストア「みちのく」に立ち寄った。
このコンビニは手作りシェークが有名らしく、特に「いちごミルク」420円は大人気で、夏は国道が渋滞するほど混むという。
気温10℃の雨の中、さっそく私はいちごミルクシェークを注文。
果肉がジューシーで、こんなにもおいしいシェークはおそらく初めて飲んだであろう。

【国内旅行】台風に乗っていく青森の旅Vol.3~台風前夜の散策~

さて、15時過ぎに早々と青森国際ホテルにチェックインした私は、3時間ほどの仮眠をとって、18時に活動を再開。
まずは、青森地盤のデパート「中三百貨店」を視察。
平日の夕方、それも台風前ということで、店内が2Fから8Fまで、おそらく客は1人もいなかった。
地下1F2Fのデパ地下フロアへ行くと、ちらほらと客がいた。
つづいて、若者の集まる「アニメイト」へ。
こちらは学校帰りの高校生と賑わっていると踏んだが、実際には数えるほどの客しかいなかった。
そして、仙台地盤のデパート「さくら野百貨店」へ。
こちらは中三よりもテナントが充実しており、すべてのフロアで客を確認することができた。
福島の百貨店「中合」も含め、地方都市の百貨店は瀕死状態のように見える。
しかし、三越伊勢丹の傘下に入った郡山の百貨店「うすい」は、平日でもそれなりに混雑しており、勝敗の原因はどこにあるのか、疑問を持った。

夕食を青森駅前の「おさない食堂」で取ろうと思っていたが、体育の日の振替で火曜日が休みだと分かったので、わざわざ青森まで来て「さくら野」のデパ地下で、半額で売っていた富山の駅弁「ます寿司」を買ってしまった。
台風が日本列島に接近していると聞いていたが、青森はまだ雨が降っていなかったので、津軽海峡を臨む青森ベイブリッジ周辺を散策してみた。
20時頃に部屋に戻り、シャワーを浴びてから缶ビールとます寿司で夕食を取った。

以下、青森の夜景をご紹介。

【青森ベイブリッジと八甲田丸】
(2013年10月15日)


【物産館アスパムと青森ベイブリッジ】
(2013年10月15日)


【青森ベイブリッジから眺める青森市街】
(2013年10月15日)


【小さくなってしまった青森駅の夜】
(2013年10月15日)


【Aファクトリーとベイブリッジ】
(2013年10月15日)

【国内旅行】台風に乗っていく青森の旅Vol.2~青森国際ホテルの思い出~

【青森国際ホテル入口】
(2013年10月17日)


【ホテルのロビー】
(2013年10月17日)


【エレガントなエレベーター】
(2013年10月17日)


【落ち着いたつくりの客室】
(2013年10月17日)


【シングルベッドは寂しい】
(2013年10月17日)

今回は、老舗の青森国際ホテルに宿泊する。
私は今回、チェーン化されたホテルがはびこる地方都市で、その街の人が結婚式や宴会に使うステータスとなっている地元に親しまれているホテルに泊まることを選んだ。
この発想の背景には、福島市の「ホテル辰巳屋」や「ビューホテル」のことが頭の中にある。
創業70年を超えるような地元に根付いた素晴らしいホテルが地方都市にはそれぞれあって、そこには地元の心がこもっていると思ったからだ。
それでいて今日ではチェーン化されたホテルとの競争を強いられ、価格もかなり下がっている。

青森国際ホテルは、そんな私の期待を裏切ることはなかった。
建物は新しくはないが、ロビーから客室に至るまでの絨毯はきれいに掃除され、丁寧に使われていることが見てとれた。
そしてフロントからドアマン、レストラン、清掃のおばちゃんまで、従業員のホテルに対する誇りを感じた。
部屋には、手作りの列車時刻表や地元の観光案内の冊子が置かれていた。
最終日、チェックアウトをして外に出た時に、ちょうど通り雨が降ってきた。
駅までタクシーを使う距離でもないし、どうしようかと考えていたら、フロントの人がビニル傘を持ってきて
「こちらを差し上げます。お使いください。」
と、下さったのだった。
他のホテルでもやっているのかもしれないけれど、こういったタイミングを見計らって配慮をしてくれると、感動する。
これこそが日本の「お・も・て・な・し」だと思った。

【国内旅行】台風に乗っていく青森の旅Vol.1~高速バスを乗り継ぐ~

20131015日から17日まで、23日の行程で青森へ出掛けてきた。
1015()
三連休の雲ひとつない秋晴れから一転、これから下り坂の予報だった。
まるで私がみちのく路を下っていくのと沿うように、台風も北上するというのだ。

出発の朝はまだ、晴れていた。
7時に起床し、身支度を整えて7時半に出発。
最寄りの金谷川駅までは、歩いて10分だ。
電車の到着とほぼ同じくして私は、ホームに立った。
金谷川743分発、東北本線下り普通仙台行きの6両編成だ。
車内は通勤・通学客で混雑し、高校生は英語の単語帳をめくったり、静かにおしゃべりをしたりして、過ごしていた。
10分ほどで福島駅に到着し、東口のバスターミナルに向かう。
仙台から青森までのバスは予約制なので、事前に支払いを済ませておいたが、福島から仙台までは通勤路線なので予約の必要はない。
福島交通の窓口で福島から仙台までの往復乗車券を購入し、仙台行きの列に並ぶ。
15分ほど待っていたが、その間に市内の路線バスがひっきりなしに発着し、会津若松からの高速バスも発着した。
若松から到着したバスからは、通勤客や行楽客、通学の高校生まで含まれていた。
毎日、会津と福島を行き来するのは、さぞかし大変なことだろうと思った。

【福島駅東口バス乗り場】
(2013年10月15日)

ほぼ定刻で、福島発仙台行きの高速バスが到着し、さっそく乗り込む。
運行会社は福島交通で、通勤時間帯が一服したためか、乗客は10人ほどしかいなかった。
「福島~仙台」は、JRバス東北・宮城交通・福島交通の3社が共同運行している。
3分遅れの813分に福島駅東口を出発し、福島中央郵便局、稲荷田、原田東、天王下と止まり、途中からは合わせて5人ほどが乗ってきた。
835分に福島飯坂ICから東北自動車道に入り、さまざまなナンバープレートが入り混じった交通量の多い高速道路を下る。
国見峠を越えて宮城県に入ったあたりから空は曇りはじめた。
村田JCTで山形・酒田へと延びる山形道と分岐し、今日から始まった仙台宮城~泉の改修工事で心配していたる渋滞もなかった。
920分に仙台宮城ICを出て、青葉山トンネルを抜けると仙台の中心市街に着いた。
仙台側の最初の停留所は、広瀬通一番町。
仙台駅からは地下鉄で1駅の、国分町に近い仙台の中心街だ。
ここでほとんどの乗客が降り、終点の仙台駅前の42番バス停には10分遅れの940分に到着した。
青森行きのバスは、1030分に発車する。
目の前にあったファミリーマートで、お昼に食べるおにぎりを2つとペットボトルのお茶を購入。
レジに並んでいると、新発売の「ファミマプレミアムチキン(骨なし)」が目に入り、200円と高かったが衝動買いしてしまった。

【仙台・宮交高速バスセンター】
(2013年10月15日)

バスを降りた42番から反対側の車線の40番に移動して、宮城交通の高速バスセンターに入った。
仙台の待合室は広くきれいで、乗り継ぎで待つには心地よい空間だ。
さっそくベンチに腰掛け、さっき買ったファミマプレミアムチキン(骨なし)を食べる。
味の方は胡椒でごまかされた感じがあり、200円あったらイトーヨーカドーのポッポにある「メガポテト」の方がいいな、と思った。

前に設置されたNHKニュースを見ていると、あっという間に時間が過ぎてしまい、アナウンスが入った。
1030分発、青森行きをご利用のお客様、40番のりばへお越しください。」
盗み聞きするに、石巻や福島へ向かうビジネス客をよそに、私は待合室をさっそうと立ち去る。
40番のりばへ行くと、青森行きのバスが入っていた。
乗客は20人ほどで、東北楽天イーグルスのキャップをかぶったおじさんや、荷物をたくさん抱えながら津軽弁を話す老夫婦などが、座席の位置を確認していた。
運航会社は、津軽地盤のバス会社である弘南バスだった。
「仙台~青森」は、JRバス東北・宮城交通・十和田観光・弘南バスの4社が共同運行している。

【青森行きの高速バス@仙台】
(2013年10月15日)

仙台駅前を定刻の1030分に発車したバスは、福島発着の高速バスは停車する「広瀬通一番町」には止まらずに、10分ほどで仙台宮城ICから東北自動車道に入る。
空はすっかり厚い雲に覆われてしまい、昼間なのに薄暗い。
仙台平野を北上し、1回目の休憩は岩手県の前沢SA
1150分から12時までの10分間だった。

トイレ休憩を挟んで、バスはすぐに発車。
小沢一郎の地元である水沢で、車窓に映る4車線の農道を見ながら、仙台のファミリーマートで買ったおにぎりを食べる。

バスは右手に盛岡の市街地を、左手に岩手山を眺めながら北へ進む。
「滝沢出口」の看板を見ながら、ここが来年11日に村から市に一気に昇格する噂の滝沢村かと思う。
そういえば盛岡を過ぎたあたりから乗り心地が著しく悪くなった気がする。
そして西根ICから終点青森までは最高速度が常時80km/hに規制されているのだという。
地震の影響か、除雪車の影響かは分からないが、インフラはこうやって末端地域から崩れていくのだな、と思った。

1345分、秋田県の花輪SA2回目の休憩。
木々はすっかり色づいていて、きれいだった。
ここでも10分ほどですぐに発車した。
雨こそ降らないものの、外は一時真っ暗のようになった。
深い十和田の山の中をトンネルと橋をまたいで抜けていく。

【青森駅に到着】
(2013年10月15日)

1420分を過ぎたころ、峠を抜けて津軽平野に入った。
左手に弘前市街を眺め、両脇に広がるりんご畑を走っていると、最初の停留所「牡丹平(高速黒石)」が近づいてきた。
車内アナウンスが流れ、誰も下車しないことが分かると、バスは牡丹平を通過した。

いよいよ本州最北の地である青森市に突入し、牡丹平から10分で次の「羽黒平(高速浪岡)」の停留所がやってきたが、ここも通過。
東北自動車道の青森料金所を手前にしてバスは青森自動車道に入り、青森市街が見えてくると、4年前に開通したばかりの東北新幹線の高架をくぐった。
かつては夜汽車で行き来した青森も、今や東京から新幹線で3時間あまり。
各地方都市の駅前にはビジネスホテルが林立し、営業所は廃止され、車中泊の回数も減ったことだろう。
昔に比べて移動が速くなった分、時間ができたはずなのに、そのゆとりはどこへ行ってしまったのか、世間はますます忙しくなる一方である。
移動に時間をかけるということは、余暇時間を確保することであって、ものをゆっくり考えられる意外に重要なことなのかな、と思った。
道路脇から広がる田んぼは、すでに稲刈りを終えたようで、冬の足音が聞こえるようだった。

【青森駅前に到着した高速バス】
(2013年10月15日)

厚い雲に覆われた1450分。
高速バスは青森中央ICを出て、青森市街へと入っていく。
何度も信号で止まりながら、ついに1510分、青森駅前に到着した。
5回目の、そして5ヵ月ぶりの青森である。