2013年10月31日木曜日

秋の夜に抱くもやもや感

(東北道から眺める岩手山)

青森から福島に戻って2週間。
この2週間はよくわからないけど、忙しかった。
10月も月末になってようやく心に余裕が出てきた。
今夜は、グランドキリンという少し高いビールを飲んでいる。
とてもおいしい。

今夜は特に書くことはないが、とりあえず今の気持ちをつづってみる。
今月23日は私の誕生日ということで、思いもよらなかった学友たちから祝福してもらった。
恋人と別れたばかりで今年の誕生日は寂しい思いをするのかなぁっと思っていただけに、本当にうれしかった。
振り返れば昨年の誕生日の時には新しい恋人と付き合い始めたばかりだった。
車で裏磐梯へ出掛けて、五色沼へ行ったんだっけ、なんて考えながら、1年という時間は短いものだな、と思った。
苦しい時の1年はあれほどまでに長いのに、楽しいひと時は刹那のうちに過ぎ去ってしまう。
時計の針はいつも同じような動きをしているように見えるけど、時間の長さというのは本当はいろいろなのかな、って前から思っていた。
果たして来年の誕生日はどんな状況になっているのかな、と今から楽しみだ。
そして死ぬ前の最後の誕生日は、どのように迎えているのだろうか。
いつが最後の誕生日かだなんて、人生終わってみないとわからない。
すべてが終わった時に振り返ってみて、あのときが最後だったのか!と知るのだろうが、その時はもう遅い。
そう、何かが起きてしまってから後悔しても仕方ないのだ。

昨日30日は、福島市内にあるとある女性の家を尋ねた。
彼女とはNPOを通じて知り合い、前回の参院選の時には選挙の手伝いで駆りだされた仲である。
彼女は福島女子高から桜の聖母短大を出て、二十歳から福島県内の中学校で英語の教鞭をとっていたパワフルなおばあちゃんで、私が知り合った時にはすでに定年退職をしていた。
教員時代には日教組の幹部をも務めたというコテコテのリベラルで、世界平和を目指して政治から変えようとしている。
県議選に2度出馬するも落選し、その後は国政選挙に分身を送ろうとして失敗して、それでも「自分は間違ったことはやっていない」という強い信念を持っている人間だ。
そんな女性のお宅へ行って、お昼ご飯をごちそうになった。
ランチのあと、11月中旬に福島市長選が予定されており、その選挙絡みで県庁へ行くというので私もついて行った。
そこで県政記者クラブの部屋に入って、初めて記者会見というのを目の前で見学した。
記者会見を行った人物は現職の市議会議員で、今度の市長選に立候補した30歳の若い政治家で、別の候補と政策協定を結んで自分は降りるという内容だった。
その候補者が降りるまでに至る経緯はまさにドラマのごとく根回しのされた話のようで、これが民主主義なのかと考えさせられた。
中国人の権力者は家や車を壊したり法律を守らずに相手を陥れようとすることに長けているが、日本人の権力者は誰も気づかないように根回しに根回しを回して相手を陥れることに長けているのだということを思った。
表に出てくるのはほんの一部分で、大事な真実は闇の中。
そして感心したことに、質問する記者の中には頭のいい人が結構いて、おそらく根回しにやられたということの確認を取るかのような質問も飛んだ。
おそらくプロの記者たちはもうわかっているのだろう。
日常茶飯事なのだろう。
しかしそのことが報道されることはおそらくないだろう。
報道会社によってオブラートに包んで流すところもあれば、まったく着色を加えて流すところもあるだろう。
いずれにしても真実はいつもひとつなのだ。

これまで政治は世界を変えられるのか、とずっと疑問を抱いていたが、今日、ひとつの中間的な結論が出たかもしれない。
政治は世界を変えることもできるし、できないかもしれない。
それは政治の世界で生きようとする本人次第なのであるということ。
自分が政治で世界を変えようと思えば変えることはできるし、その可能性に少しでも疑問符をつけてしまったら大きな圧力に屈してしまうということ。
そして最後は1人で戦わないといけないということ。
人間は弱いから周りの支えを必要としている。
自分に同調してくれる人が多ければ多いほど自分に自信は持てるし、逆に反対を唱える人や協力してくれない人が多ければ自信をなくしてしまう。
今日とても勉強になったのは、立候補者が30歳という若さの点だ。
私は経験がモノを言うという思考を持っているので、若い人では無理だ、とずっと思ってきた。
実際に30歳の立候補者と少ししゃべってみて、本当に若いし、頼りになるのか疑問符だらけだった。
でも挑戦できるのは若いからで、年を重ねれば重ねるほど丸くなっていくのかな、と思わされた日だった。

日曜日の深夜に私がよく見るNHK教育「スーパープレゼンテーション」という番組がある。
先週は、バージニア大学で心理学を教えるMeg Jayという人の「"30代は20代みたいなもの"じゃありません」というプレゼンだった。
スーパープレゼンテーションに関することは公式サイトで見ることができるので、そちらに譲るとして、今日アメリカで「20代はモラトリアム」と言われているけれども、実はそうじゃなくて、20代は大人の人生を歩む上でとても重要な時期で、この時期に何を学んだかで生涯賃金も変わるしこれから自分が作る家庭も変わるというものであった。
恋人に振られたばかりの私にはキツイ内容だった(笑)が、もっと将来を具体的にイメージしないといけないな、と思った。

先日、些細な人間関係のトラブルを起こして研究室の出入りを一時的に禁じられた学生がいる。
彼は後輩思いでとてもやさしい学生なのだが、大勢の中に入ると少し変わってしまう。
個人的にさしで飲めば分かりあえるのに、人数が増えると収拾がつかなくなってしまう。
どうしてなんだろうか。
これは彼個人に限らず、国家や宗教の対立についてもあてはまるのではないかな、って思っている。
アメリカ人とイラク人だって、フランス人とアルジェリア人だって、日本人と中国人だって、1対1で話し合えば分かりあえる。
時間がかかる場合もあるかもしれないけど、「話せば分かる」。
しかし、一方が何らかの文句をつけて話を聞かなかったり、歪んだ解釈をすれば、そこで対立は深くなってしまう。

話せば分かる。
悪く言えば、声の大きい人が有利に持っていく。
お人好しなだけじゃダメなんだ。
よく企業は「人財」なんて当て字を使っているけど、あれは間違いだ。
正しくは「人材」。
人が財産なのは当然で、それをわざわざ文字で表わさないとならないくらい社会が歪んでいることに残念でならない。
それにしても個人的には、人間が好きだ。
嬉しいことは嬉しい、むかつくことには怒って、良い知らせには喜ぶ。
男は男らしく、女は女らしく、ペットはペットらしく、人間は人間らしくふるまう。
それが最近では肉食女子だとか、草食男子と言われている。
「○○力」という表現が支持されるのは、そういう「~らしく」振る舞える人が少ないからではないだろうか、と思う。
外国人が京都を好むのは、京都に「日本らしい」建物がたくさんあるからなのと一緒だ。
しかし、現代の日本が抱える課題は京都にはなくて、いろいろなところに散在している。
そしてとくにその歪みが現れるのは、災害を受けた地方なのかと。
若い私は、いろいろなことに問題があると感じている。
どうか触覚が鈍る前に何かできるようになりたい、何とかしたい。
あれれ、数年前にケニアで知り合った2つ3つ年上の学生たちが私に語りかけていたことに似ているような…。
私も年を重ねているのだなぁ。
まぁいっか。
もっと素直に生きたいと思う秋の夜であった。

0 件のコメント:

コメントを投稿