2013年7月14日日曜日

【PC投稿】“原発”で1年生をいじめてみる



こんばんは。
福島市の「コラッセふくしま」12F展望ラウンジから吾妻山を眺める夕焼けです。

いよいよ選挙が近いですね。
最近、とある政党の手伝いをしています。
演説している人の周りでビラを配るボランティアです。

人と接することが好きな私はビラ配りも抵抗はありません。
以前、ティッシュ配りのアルバイトをしたことがありますが、その時はサクサクとこなせました。

しかし今回は営利企業ではありません。
思想心情に関わるビラ配りです。
枚数を配れば良いというわけではないと何度も言われています。
それはとても難しいです。
私自身、他人に自分の思想を押しつけるのは嫌いなので、なかなか好きになれません。
でも、主に年配の方々なのですが、他のボランティアはかなり積極的に取り組んでいます。
そんな中でも、「このビラ配りって意味あるのかねぇ」なんて半信半疑のおばちゃんもいたりします。

ところで、別の最近では1年生と仲良くしている私でもあります。
中には東京から福島に来た学生もいれば、生まれた時からずっと福島で育ってきた学生もいます。
彼らが震災に遭った時は、高校2年生だったようです。
私が当時、二十歳でしたから、大学より上の年齢層の人としか関わりがありませんでした。
1年生と話して、当時の状況を軽く聞いたりしています。

それはとても興味深い話で、浜から通っていた友人は鬱になっただとか、結婚が取りやめになっただとか、将来のこと(自分自身の身体や子や孫のこと)を気にしているだとか、もし原発事故の避難に関わる賠償金以上の精神的な苦痛を生で聞くことをしています。

他県からのこのことやってきた私は、震災時に福島にいたからと言っても、しょせんはよそ者で、逃げようと思えばいつでも逃げる場所のある立場なのだと改めて実感します。
逃げる場所があるにも関わらず福島にいるということは、何が起きても自己責任なのかもしれません。
だからこそ、子どもが奇形児だったとしても後悔しない、それほどまでに福島でしかできないことをやらなければならない、そう思っています。
福島をリスクのある付加価値だと捉えてきました。

しかし、今回1年生から様々なケースを聞き、それは間違っているのかもしれないと考えたりします。
ある1年生が大学に入る前に検査へ行ったそうです。
その学生に異常は見つからなかったのですが、その場で居合わせた児童が泣きじゃくっていたと聞きました。
理由は、児童に影が見つかり県立医大での精密検査へ回されたからだということです。

「なぜ、ぼくだけがみんなとちがうの?」

私も検査を受けることはできますが、これまでは政府への反抗心から気にも止めませんでした。
人体実験をされるのに無給だなんて考えられない!
でも1年生のエピソードを聞いて、社会科見学として検査を受けてくるのも良いかな、なんて思いました。

交流している1年生のほとんどは、私と同じ経済学部の学生です。
中には、
「原発は無くした方が良いけど、経済が回らいのでは、仕方ないんじゃない」
なんて言う学生もいます。
彼らはまだ、高校の「公民」科目の延長の勉強をしており、「経済」という言葉が「経世済民」に由来しているということを知ったばかりの次元です。
そんな1年生に、私は嫌な先輩なので食ってかかったりします。

「経済が回れば、人の命は犠牲にしてもいいの?経済のために人を見殺しにするわけ?何のために大学まで来て、経済を勉強しているの?」

私自身、その模範解答はわかりません。
今後、彼らと議論ができたらいいな、なんて考えています。

これまでもときどき、「福島に住む意味」を自問してきました。
来年から東京に移ることになりそうですが、もしかしたら10年後、福島にまた帰って来るかもしれません。

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